◇◇ 平田 東審判員 ◇◇


■その(5)
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 昭和30年3月16日、幸袋中学校を卒業し、中学時代の二つのアルバイト(豆炭工場と土方)を除いて、初めての就職先は飯塚市内の武田器械店でした。
 歯科医院への器材を取り扱っていて、夫婦とその親戚の独身男性、そして新人の私を含めて4人の小さな零細会社で、全員住込み(夫婦は当然ですが)でした。
 仕事は歯科医院からの注文品を届けたり、また注文をとってきたりする仕事でしたが、遠くは稲築町辺りまで、自転車に乗っての配達や注文取りは結構大変でした。

 生まれて初めて親元を離れて暮らすことになりました。
 親離れしない15歳の子供にとって、親や弟たちの元を離れることは本当に辛いことでした。
 家を離れた寂しさ、住込んだ家族の方たちと馴染めなかった、夢のない仕事にも嫌気がさし、理由は色々ですが2週間ほどで、ここを辞めました。我が人生多難のスタートです。

 この武田器械店を最初の就職先として、その後、60歳の定年を迎えるまでの45年間に、実に30数回の転職を繰り返すことになりました。

 現在「我が野球人生・・・」を書き進めていますが、むしろ「壮絶・我が転職人生・・」の方が自慢にはなりませんが、数倍面白かったのではないかと思います。
 機会がありましたら、転職人生・・を1冊の本にまとめてみたいと思っています。

 2度目の就職先は職業安定所(現:ハローワーク)からの紹介で、同じ飯塚市内の油伝味噌(株)で、住込みは懲りたので、今度は通勤のできる会社を選びました。
 会社までの交通手段は、バスや電車を利用し、自宅からの所要時間は1時間程度でした。
 
 米や大豆を使っての味噌作りから、量販店への納品のときはトラックの助手、小売の商店等へは、自転車の荷台に味噌樽を乗せての配達の仕事でした。
 従業員は10人ほどの会社で、給料は1日働いて130円でした。

 給料日には唯一野球の月刊誌を買うのが楽しみで、1冊買ったあとの残りは全額(大した額ではありませんが)親に渡していました。
 5月から働きだして会社に慣れた8月の初めに、中学時代の仲間がいる、嘉穂東高校のグラウンドを覗いてみることにしました。

 やっていました、中学時代の仲間、大迫や松尾たちが・・・そして大勢の部員が、元気にグラウンドを駆け回る練習風景を目にしました。
 私は姿を見せたくないので、少し離れた場所からの見学でしたが、一挙手一投足に目を凝らしました。
 中学時代の軟球に比べ、硬球独特のカーンという快音(当時は金属バットなし)とスピード感にすっかり魅せられました。

 夏から9月にかけての約2ケ月間は、勤め帰りにグラウンドを覗くことが日課のようになりました。
 しかし秋の訪れとともに、会社を終わっての練習見学は、日没も早くなり無理な状況となって楽しみもなくなりました。

(平成14年10月26日記)



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