◇◇ 平田 東審判員 ◇◇


■その(10)
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 3年生にとって最後の夏の大会は、延長20回という死力を尽くした戦いの中での敗戦でしたので、ショックは大きかったと思いますが、私たちにとっては暴力の連続で2年生と3年生部員の仲もしっくりいっていなかったことで、私自身は負けたことは悔しかったけれども、この負けで、耐え続けた3年生ともサヨナラができると思いますと、その一方で嬉しくて仕方がありませんでした。

 夢と希望、そして野球ができると悦びに満ちて、飯塚商業に入学した1年3ケ月前の感動と熱い想いは、上級生の暴力の嵐によって踏み躙られ、野球とは=暴力なのかと疑念を抱いたことは、入学当時50人の同級生部員がこの間に、僅か8人に減少した事実が何よりも証明しています。

 私は意地と根性と、そして野球が好きだという一念で、辛うじてこの8人の中に残ることができました。

 1年生、夏の大会以降の新チームから、この夏の大会までの1年間は、地獄(まだみていませんが)の1年といっても過言ではなかったと思います。

 スポーツ本来の目的は楽しむということが大前提だと思いますが、目的を逸脱した行為でしか行動できなかった3年生は哀れとしか形容のしかたがなく、このような状態で伝統など繋いでいける訳がありません。

 入学以来この1年3ケ月の間で思い出は幾つかありますが、楽しいと感じた想い出は何一つありませんでした。

 唯一この3年生に感謝するとすれば、延長20回という試合に携わらせてもらえたことです。

 延長20回という試合は、その後40年に及ぶ私の野球人生の中でも、球史に残る試合ですので、その試合のオーダー、両校の打撃成績などを記載しておきます。

 1番(遊)山本東(2年・私の旧姓)、2番(三)高村(2年)、3番(中)内海(3年)、4番(一)甲斐(3年)、5番(捕)山本恒(3年)、6番(右)安永(3年)、7番(投)前田(3年)、8番(二)千北 
 (3年)、9番(左)井上(3年)。
 1回から20回まで選手の交代なし。

飯塚商業 64 15 11 10
  打数 得点 安打 三振 四球 犠打 盗塁 失策
筑豊高校 64 12 10 10

 ちなみに私の打撃成績は、8打数、2安打、1得点、2三振、1四球、0失策、でした。

 この夏の甲子園では、広島商業が法政二高を3対1で破って優勝しました。

 3年生9人の夏が終わって部を去り、私たち2年生が最上級生となっての練習が始まりました。
 1年生が約20人と私たち2年生が8人、合わせて30人弱の新メンバーでスタートを切りました。
 
 夏休み期間中の練習は、昨年の夏と同じように、午前9時頃から午後3時頃までの昼食を挟んでの約5時間で、ランニング、体操、キャッチボール、トスバッテング、フリーバッテング、バント練習等と続き、午後にはレギュラーバッテング、そして守備練習に入りますが、当時は練習中の水分補給は禁じられていましたので、喉の渇きと大粒の汗を流しながら受けるノックは、本当に地獄の苦しみでした。

 最初の40〜50本のノックまではなんとか付いていけるのですが、それ以後のノックに対しては少しでも楽をするために、山カン(私の場合は遊撃手でしたので、ノックする監督の動作から次は三塁側へノックされると判断し、ノックされる僅か前に三塁側へスタートを切るような行為)に頼ることが多くなりますが山カンが当たればシメシメですが、山カンが外れて違う方向へノックの球が来たときは、一歩も動けない状態となり、ノックする監督は当然山カンで動いていることを知っていますので、そのときはバカヤローと、よく怒声を浴びせられました。

 最後の20〜30本のノックはほとんど動けない状態となりますが、そのときはバケツの水をかぶりながらのノックとなり、後輩が用意したバケツの水を頭からかぶりながら素早くその水を飲みました。

 バケツの水が汚いなどといっておれませんし、少量の汚い水でも喉を潤せばまた元気が出てきます。
 そしてその勢いで最後のノックまでなんとか頑張るのです。ノックが終わるとぶっ倒れて仮死状態?です。
 
 また打撃練習中などに喉が渇いたりしたときは、わざとエラーをしてセンター方向へボールを拾いにいき後輩に予め用意させておいた水を校舎の片隅で飲みました。

 私たちは最上級生ですから、監督にさえ見つからなければある程度は自由が利き、このときばかりは最上級生の特権?を享受しました。

 1年生に対してのしごき(気合入れ)の方は、ときには全員を集めてやりましたが、上級生に散々叩かれて痛みが分かっていたので、下級生が可哀想になりあまりやらなかったと記憶しています。

 真っ黒になって練習を重ねた夏休みが終わり、2学期の授業が始まりました。

 来春の選抜大会を目指す秋季大会も3回戦あたりで負け、12月に入ると前年同様の体力づくり目的のロードワークが始まりました。
 
 現在のように室内練習場をもち、筋力アップの施設などない時代でしたので、ロードワーク主体で、精々全員が輪になってバットの素振りを繰り返す程度が、冬季の練習法の主力でした。

 雨の日は体育館で軽い体操とバットの素振り、そして時々監督がルールの話をされていました。
 そのルールの話の中で、インフイールドフライとはどのような状況のときに適用されるルールなのか、と監督から問題が出されたのですが、私は勇んで?「ハイ、無死または一死でランナーが、一塁、または一・二塁、または満塁のときに内野に打たれたフライを(一・います」と答えたのですが、監督は「ランナーが一塁だけ(一・三塁も同じ)のときは適用されないぞ。また内野に上がっただけではなくて、審判員がインフイールドフライ、と宣告して初めて効力を発するのだ」と教えていただきました。

 私としては30人ほどの部員の前で、間違った答をいって恥をかいた訳ですが、このときの恥が現在審判活動する上で大いに役立ち、ルールを知らないでグラウンドに立つと恥をかくのは自分だ、と自身に言い聞かせルールについての勉強は欠かしていません。
特にインフイールドフライの適用については、このときの教訓を胸に間違いのないようジャッジしています。

 12月も終わりに近い日に、3年生に対して最後の行事である謝恩忘年会(名称は正式ではないと思いますが、旧3年生部員を迎え、1・2年生部員が場所や料理などを準備し送り出す恒例行事)を、お寺の大広間を借りて行なったのですが、ここでもバカ3年生は暴れて、最後は収拾がつかなくなりました。
 後輩が感謝の気持をもって送り出そうとした、最後の謝恩会までも3年生は台無しにしてしまいました。
 
 私は、今でも当時3年生の一連の行為を思い出し、この人たちはその後社会人となり、結婚して子供を育て、社会の荒波に揉まれる中で、少しはまともな人間になれたのかなと憂慮しています。

 理不尽な暴力を受けた者からみて、決して許すことができない、痛みを忘れず生きている者もいるということを、何処の空の下でも構わないから憶えておいて欲しいと思います。

 この3年生の中から、当時としては一流企業の部類に属していた会社を含め、社会人野球へ5人が就職しましたが、ここでは名誉のために社名等は省略しておきます。

 長かったオフのトレーニングも終わり、春を迎えて私もいよいよ3年生になりました。

(2003年1月13日)




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