◇◇ 平田 東審判員 ◇◇


■その(11)
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 3年生にとって最後の大会まで残すところ3ケ月となり、練習にも一段と気合が入ってきました。
 そんなある日、練習試合が行なわれたのですが、試合前のシートノックのときに、ノックの球を右手親指に受け、指が血で真っ赤となり痛さもあって、ベンチへ戻って治療していたのですが、守備練習を終わってベンチへ帰ってきた監督は、まずオレのところへ来てけがの状況を報告するのが先だろうがと、手順を間違えて直接ベンチへ帰ったことに立腹された様子で、このことがあって監督とは暫くの間、しっくりしない状態が続きました。

 けがの方は部長に伴われて飯塚市内の病院に同行していただきましたが、親指の爪の半分ほど生爪が剥がれている状態で、医者はこのままで自然に治すより、爪を取り去った方が治りは早いと診断され、指の2〜3箇所に麻酔注射を打ったものの、あまり麻酔が効かず爪の方もなかなか取れなかったので、医者は最後の手段としてペンチ(私に隠して)を看護婦に持ってこさせ、痛さと恐怖に慄く?私の腕を押さえつけ生爪の剥ぎ取りには成功しましたが、麻酔注射自体の痛さと、麻酔が効かない状態でのペンチを使っての剥ぎ取りの荒療治で、我慢強い?私も、さすがに痛さで悲鳴を上げ涙を流したことを覚えています。

 監督に対しては、私が一言「すみませんでした」と謝れば済んだことと思いますが、私も頑固な一面がありましたので、謝ることはしませんでした。

 暫くのあと、監督の方がしびれを切らした形で、担任の先生を通してやる気があるのかないのか返事をするようにと伝えてこられ、担任の小西先生に伴われ職員室の監督を訪ね、「謝ろうと思っていたのですが、謝る時期を失ってしまいました」と率直に私の気持を伝えると、監督は納得されたのか、「夏の大会も近いのでけがを早く治してがんばるように」といわれ、この時点で監督とのしこりは氷解しました。

 けがをしたあともグラウンドには毎日出ていましたが、親指の傷の方は完全ではないものの、3週間ほどで練習ができるようになりました。

 余談になりますが、私たちは昨年夏の大会で20回という延長戦を行ないましたが、この年の夏の大会から健康管理を考慮し、延長戦は18回までとの規定が設けられました。

 健康管理の理由となった原因は、昭和33年春の四国大会で、徳島商業の坂東投手(現在タレントとして活躍中)は、高知商業戦で延長16回、続く高松商業戦でも延長24回を投げ、2日間で40イニングを投げ抜き、このことが全国高校野球連盟の理事会で取り上げられ、健康管理の名のもとに、この夏の大会から18回打切り制が実現することになりました。

 そしてその適用第1号は坂東投手自身で、この年の夏の甲子園大会に出場し、準々決勝の魚津高校戦(村椿投手)で延長18回を投げて0−0で引き分け再試合となり、次の日も9回を完投し、2日間で27回を投げ切りました。

 話を戻しますが、春季大会が終わって夏の大会まであと1ケ月という時期に、筑豊地区の大会が行なわれましたが、この大会の決勝戦で、後にも先にも始めての経験でしたが、4番を打つことになり0−1とリードされていた6回に、走者1人を置いてレフト頭上を越える2ランホームランを打ち、試合はそのまま2−1で勝ち優勝しましたが、よい思い出として記憶に残っています。

 やがて6月末を向かえ、夏の大会の組み合わせも決まりました。
昨年は(私の2年時)超高校級と騒がれた選手もいた大型チームでしたが、この年のチームは小粒で攻撃力・投手力ともに弱く、レギュラーも2年生が半数を占め、大会前の評価も芳しいものではありませんでした。 

 私たち3年生にとって(昭和33年・第40回記念大会)最後の夏の大会が始まりました。

 1回戦は不戦勝、2回戦は小倉西高校を8−0で破りましたが、この試合で私は右中間を抜くランニングホームランを1本打つことができました。
3回戦は昨年延長20回を戦って敗れた因縁の筑豊高校でしたが、5−1で破って雪辱を果たしました。続く4回戦は、2次予選への出場決定戦で、小倉工業高校と対戦しましたが、昨年同様最終回に再び悪夢が襲いました。

 得点経過は下記の通りです。

 飯塚商業高  0 0 0 3 1 0 0 1 0  5
 小倉工業高  1 0 0 0 0 0 0 0 5X  6

 最終回に長短打を集中され、見事な逆転サヨナラ負けを喫してしまいました。
 2年続けて最終回に逆転サヨナラ負けを経験し、野球の怖さを知りました。

 私の高校時代最後の試合のオーダーです。(投手は3人の継投)
 1番・山本(遊・3年、私の旧姓)、2番江上(右・2年)、3番・高村(三・3年、主将)、4番・松尾(二・2年)、5番・池田(一・3年)、6番・白土(中・2年)、7番・住吉(捕・3年)、8番・佐藤(投・2年)、宮(3年)、畠中(2年)、9番・山崎(左・2年)

 結果的に私が在籍した1年からの3年間、すべて福岡県大会1次予選の代表決定戦で敗れ去ることになりました。
 私の高校野球生活はこの敗戦で終わりました。

 2年生の夏の大会で負けたときには出なかった涙が止まりませんでした。
 負けた悔しさ、練習に明け暮れた入学以来2年3ケ月の思い出、そして何よりもこれで高校野球は終わったのだとの思いなどが交錯して頭の中を駆け巡りました。
 昨年の夏に3年生が流した涙の意味がこのときになって分かりました。

 試合後に分かったのですが、スタンドには飯塚商業への入学のアドバイスをいただいた、福重さんが応援に来られていたのですが、残念ながら期待に応えることはできませんでした。

 自己評価ですが、高校3年間を振り返ってみますと、比較的本番に強いタイプで、試合では1番打者として、ヒット、四球、相手エラーなどで出塁し、足を生かしての盗塁、そして上位打者のヒットで生還というケースが多かったと思います。

 打撃は右狙いの打法が得意で、セカンドの頭を越えた打球は、右中間を抜くことがしばしばありました。
 また足を生かしてのバント安打の成功率も高く、上級生になってからの1年間の打率は4割5厘でした。
 守備の方では、2年生のときにショートを守り1試合で4個の失策をしたこともありました。
 すべてがよい思い出、いや苦い思いでも多くありました。

 高校在籍3年間の夏季大会の成績をまとめてみました。
 
 昭和31年(第38回大会:1年生時)
 (1回戦)飯塚商業  7−6  常磐高校
 (2回戦)飯塚商業  4−1  八幡中央高校
 (3回戦)小倉高校  5−4  飯塚商業  県大会出場決定戦(延長10回)

 昭和32年(第39回大会:2年生時)
 (1回戦)シード・不戦勝
(2回戦)飯塚商業  7−1  八幡中央高校
 (3回戦)飯塚商業  7−0  嘉穂高校
 (4回戦)筑豊高校  2−1  飯塚商業    県大会出場決定戦

 昭和33年(第40回大会:3年生時)
 (1回戦)不戦勝
 (2回戦)飯塚商業  8−0  小倉西高校   (7回コールド)
 (3回戦)飯塚商業  5−0  筑豊高校

 1年のときはスタンドからの応援で、レギュラーとして出場したのは2年生になってからです。
 2年生のときの場合は、もう少し勝ち進めたのではないかと思いますが、3年生のときは、レギュラーの半数が2年生であったことを考慮すれば、よくがんばった方だと思います。

 夏の大会が終わると、野球漬けの毎日からの開放感と夏休みとも重なり、糸が切れた凧のように飯塚市内の商店街に出かけては、当時は日活全盛の時代で石原裕次郎の「太陽の季節」や「狂った果実」、また小林旭の渡り鳥シリーズなどの映画を欠かさず観ました。

 夏休みの後半になると就職活動が始まり、日鉄北松・日炭高松・三菱化成などのノンプロのチームを幾つかテストを受けましたが、九州の中小炭鉱のほとんどが閉山に追い込まれている状態で、大手の炭坑でも野球部の存続は年毎に厳しくなっていたので、この方面での就職は無理な状況でした。

 そんな折りに大阪のPL教団(当時ノンプロあり・ジャイアンツの桑田や清原の出身校のPL学園はこの教団内にあります)への試験の話が舞い込み、書類選考のあと、夏休みも終わりに近い時期に受験することになりました。

(2003年1月29日・記)




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