◇◇ 平田 東審判員 ◇◇


■その(12)
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 PL教団の所在地は大阪府富田林市にあり、福岡から大阪までは、現在のように新幹線に乗れば3時間ほどで着きますが、当時(昭和33年)は夜行列車を利用して、約12時間かかりました。

 大阪駅から電車を乗り換え、富田林市に入り教団施設のある羽曳野丘陵に着いて、受付所を通って案内された施設の中で旅装を解きました。

 パーフエクトリバテイー教団が正しい名称で、略してPL教団は新興宗教として、昭和28年に羽曳野丘陵の一角に着工の第一歩を踏み出したと聞きました。
 教団自体のことを私は知りませんでしたが、昭和30年に同じ敷地内にPL学園高校を開校し、大阪にPL学園ありの声は僅かではありましたが、九州地方にも聞こえてきていました。

 PL教団の敷地は広大で、全国から集まる信者の宿泊施設や、何千人も入るかと思われる大講堂、また野球場や野球の室内練習場などもあり、田舎から出てきた私は近代的な設備が整っていることに、本当にびっくりしました。

 試験の方はすべて教団施設内で行なわれ、当時の記憶が少々薄れていますが、2泊3日くらいの日程で行なわれたと思います。

 受験者は地元の関西はもとより、関東や九州各県からも来ていて、40〜50人くらいはいたと思います。
 試験は学科と野球全般について行なわれました。

 学科の方は作文のようなものを書いた記憶がありますが、ノンプロのチームを創部するために、1〜2年前から高校野球の経験者を採用しているとのことで、やはり野球の実績を残すことが合格の早道の感がしました。

 実技試験は、キャッチボールに始まり、打撃や守備テストもあり、その他に走力テストや平均台を使っての平衡感覚テストなどもありました。

その他、室内練習場を使って更に細かいメニューのテストを受けました。

 最終日には実戦形式で4チームに分かれて各人1試合を行ないました。(人数の関係で2試合)私はこの試合で、実戦に強いことを発揮して、ヒット1本とショートのポジションでノーエラーでしたので、結果としてはまあまあとの実感で試験は終わりました。

 試験の結果は、後日学校へ通知するとのことでした。
 そして、また12時間をかけて夜行列車で福岡へ帰りました。

 PL教団の試験結果は10月初旬に、学校側に正式に合格通知が届きました。
 この先も存分に野球がやれる就職先が決まりました。

 秋が過ぎ、年が明けると卒業まであと2ヶ月少々の時期を迎えました。
 そんなある日、PL教団から大阪の本部で1週間ほどの実地研修を行なうとの報せがあり、研修を受ける前にPL教団の信者にならなければならないとのことで、教団の飯塚協会の支部に行き、手続きをしてPL教団の信者になりました。

 そして2月のはじめに、大阪の教団本部での研修に臨みました。
 1週間程度の研修会だったのですが、結果的にこの研修会が、私のPL教団就職を断念することの原因となりました。

 昨年8月に受験して合格した20人ほどの同僚が研修会に参加していました。

 研修が始まった初日の起床は朝5時で、身繕いをして駆け足で集合場所に集まったあと、それぞれの持ち場において、長い廊下や錬成道場、教室などの雑巾がけは、入念に磨き上げるように言い渡されました。
 上記の雑巾がけが終わると、今度は廊下の窓ガラス拭きの作業が待っていました。

 教団内にはいくつもの建物があり、全国から集まる信者の方や、私たちのような研修生が修業の意味を含めて、このような作業は研修の一環として組み込んであったのだと思います。

 長時間の掃除が終わるころには、午前8時近くになっていて空腹感を覚える時間です。部屋に帰って洗顔をして、大きな食堂に出掛けやっと朝食にありつけました。

 中学や高校を通して、廊下の雑巾がけやガラス拭きなど身を入れてやったことはなく、また早朝5時の起床には正直参りました。

 朝食後は、しばらく休憩をして10時前後から昼頃までの時間は、野球場付近や宿泊施設近辺の草むしりに精をだしました。

 そして午後になると、教室に研修生を集めて宗教の話、また教団のことや施設の説明などがありました。
そして3時頃から夕方まで野球の練習がありました。

 研修会は、毎日同じようなスケジュールで最終日を迎えました。
 1週間の研修で体の方もかなり疲れていましたので、家に帰り着き疲れをとることのみを考え、12時間をかけて自宅に辿り着きました。

 帰り着くまで分からなかったのですが、肩と肘に痛みが生じていました。
 
 昨年夏の大会後、身を入れて満足にキャッチボールをすることもなく、研修会に参加して寒いにも関わらず、無理をして急に投げたことで肩と肘を痛めたのではないかと思います。

 あと僅かの日数で卒業と同時に大阪に発ち、教団への入寮が待っています。

 野球で就職して、野球ができない状態では球団に迷惑がかかることになりますので、この時ばかりは相談する人もなく困りました。

 本来なら学校の監督をはじめ、先生方へ相談することが第一だったと思いますが、先生方へも迷惑がかかる、そのようなことばかりを考えて、とうとう卒業式を迎えてしまいました。

 そして、PL教団への就職を最終的に断念してしまいました。
 私の心境としては辛い選択でした。
 
 当時から40数年の歳月が流れましたが、PL教団へ就職していたら、その後どのような人生を辿ったのかは分かりませんが、いま言えることは、現在も野球に携わることのできる幸せを、負け惜しみでなく実感として捉えています。

(平成15年2月12日・記)



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