◇◇ 平田 東審判員 ◇◇


■その19
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 今回は茨城県での野球との関わり、プレーヤー兼審判員としての活動、また本格的審判員を目指すことになった経緯について、少し触れておきたいと思います。

 茨城県の小さな田舎の村に、高校野球とも思える野球を持ち込み、素人集団に野球のイロハから教え、夜のランニングや日曜日の試合のない日にも練習を行ない、1年を通して徹底して鍛えました。
 その成果は結成2年目の後半から少しずつ表われ、3年目のシーズンに入ると、他チームから一目置かれた強豪チームの仲間入りを果たし、その後私が在籍した10年間に亘り、近隣市町村関係の大会では、数多くの実績を上げることができましたが、この間夢中で野球とともに過ごしました。

 10年間の中で、昭和55年から58年までの4年間、私が務めた監督時代の成績は、128試合を行ない、104勝20敗4分で勝率は8割3分9厘の実績を見れば、いかに勝負にこだわり勝つ野球に徹したかが想像できると思います。

 野球には、少年野球からプロ野球まで、幅広い各層のレベルの野球がありますが、楽しむという点でプレーできるのは、草野球以外にはないと思います。
 その草野球にもチームの方針として、勝ちにこだわるチーム、楽しむことをモットーとしたチームなど、様々なケースがあるでしょうが、勝つことを重点におかないチーム、また楽しむこともできないチームは、中途半端のままでチームの存続も長続きしないことが多いのではないかと思います。

 私は肩の故障から草野球プレーヤーの継続を断念しました。

 私が審判というものに携わったのは、昭和50年に同じ自治会内で野球チームが結成されたのを機に、チームに入部し草野球活動に入りましたが、審判員が十分でない市町村で行なわれる春や秋の大会は、球審は各市町村の審判部が担当し、塁審は次の試合か前の試合の両チームまたは勝ちチームが務めるのが一般的だと思いますが、(チームからの塁審を補助審判員と呼ぶところもあります)私も最初は強制的にチームへの割り当てとして出なければならない塁審で、3塁の塁審に立ったのが記念すべき私の第1試合目の審判で、昭和52年春の大会でした。

 当時私の村では2年に1度の割合で、野球連盟が茨城県の軟連審判部の指導員4名を講師に呼び招き、審判講習会が行なわれていました。
 この講習会には、村の審判部員とともに村への登録チームは、全チームが参加を義務づけられていて、私もチームを代表してその都度参加していましたが、塁審の立つ位置や打球の追い方、アウトやセーフの手の上げ方などを教わりました。

 試合の中で審判の人が、アウト・セーフなどジャッチしているのを見ていると、簡単だなとの思いがありましたが、実際に講習会で指導されながらやってみると、意外に難しいと感じました。
 座学は公民館を使用して行なわれ、規則書を用いてルールの講義を聞きましたが、野球のルールは複雑難解の部分が多く、ルールが分かったら面白いだろうなと感じました。

 私は少しずつ野球の審判にも興味が湧き、春に土浦市で審判講習会が行なわれていることを聞き、同市の教育委員会に電話をかけ、審判部を紹介していただき、昭和54年頃から毎年自主参加し勉強に勉めました。

 私の性格の善悪は別として、何事もやりだしたら徹底してやることに特徴がありますが、当時はルールブックを何度も読み返して勉強しました。

 昭和52年に初めて塁審に立ってから、2年後の昭和54年村での春季大会の決勝戦で、審判部で勉強の成果を認めてくれたのか、またはテストの意味だったのかは分かりませんが、球審を任されました。
 新米の私に決勝戦の球審を任せたのは、連盟幹部の英断であり異例のことであったと思います。

 その試合は延長13回の熱戦となり、スコアも13回裏に1点が入るサヨナラゲームで、常陽観光チームがコンドルチームを破って優勝を遂げましたが、重要な試合を任された上に、1点を争う緊張感のある試合は、私にとって貴重な体験となりました。

 このころは、まだ野球ブームが続いている時期で、私の村でも総合運動公園建設の話が持ち上がり、昭和55年4月に工事が始まりました。
 またこの年に守谷町(現・守谷市)に建設中の常総広域市町村圏事務組合(6市町村)が運営する常総運動公園内の野球場が完成し、巨人対日本ハム戦がイースタン公式戦として行なわれました。
 常総運動公園ではこの野球場完成を機に、常総広域大会として高等学校野球大会(6月)、市町村大会(7月)、少年野球大会(7月末)、中学校野球大会(8月)が毎年開催されるようになりました。
(現在は、高等学校と中学校の2大会のみが行なわれています)

 上記4大会を運営するにあたり、常総広域審判部が新たに発足し、私もその一員に加わりました。
 またこの常総広域圏事務組合では、毎年3月に茨城県軟連から指導者を招いて、審判講習会も行なわれるようになりましたので、審判技術や他市町村の審判員との交流の場ともなり、私にとって村だけの審判だけではなく、審判技術の向上や他市町村の審判の方と接する機会ができたことは、本当に良かったと思います。
 私がいまあるのは、常総広域圏事務組合が、講習会を始め試合の審判の機会を与えてくれたお陰だと感謝しています。

 村の審判部でも昭和55年の春季大会に合わせて、紺の上下の審判服が出来上がり、私も一着購入し着用してみると少しは審判員らしくなりました。
 
 村の総合運動公園の方は、昭和56年5月にナイター照明付き(両翼91m、中堅120m)の野球場が完成しました。
 小貝川に架かる二三成橋河川敷を主会場としていた大会も、以後総合運動公園野球場を使用できるようになり、6月7日に球場開きとして村の春季大会の決勝戦を行ないました。(勘兵衛新田住宅対八期住宅)
 またこの年の8月には野球場開設記念として、元大毎オリオンズの醍醐猛夫氏を講師に招いて、スポーツ講演と野球教室が開催されました。
 次いで昭和58年8月には、スポニチ野球教室を村が招致し、田宮謙次郎、秋山登、有本義明、成田文男の4氏が講師として来村され、1中学校と7つの少年野球チームを指導されました。

 私が草野球に情熱を傾けた10年間でしたが、その間施設の建設をはじめ野球に対する環境が1年ごとに良くなり、現在の審判活動にも道が開けたのだと思います。

 昭和59年のシーズンが終わりに近づいたころ、明治神宮外苑審判協会で11月の後半の3日間、審判講習会を行なうとの記事が新聞に載っていたと、チームの仲間が知らせてくれました。

 この審判講習会の記事のことを、仲間が私に知らせてくれなければ、現在の審判活動はないか、大幅に遅れたことと思います。

 明治神宮外苑審判協会(以後外苑協会)に問合せをして、手続きが済み受講できることになりました。
 茨城の田舎の審判しか習っていない私にとって、神宮といえば六大学野球の試合などが行なわれている野球のメッカであり、最初は講習会を受けることについて悩みました。 

 多分草野球のプレーヤーを兼ね片手間でやった自分の審判に自信がなかったのだと思います。
 それでも都会の審判とはどんなものか、少し触れてみたいという好奇心もありました。
 好奇心の方が勝って3日間の講習会に参加しました。

 講習会は11月23日の勤労感謝の日を入れての3日間で、宿泊は日本青年館でした。
 講習会には地方からの参加者も多く、感動したのは現役プロ野球審判員の、セリーグ・井野さん、篠宮さんの両氏と、外苑協会に所属して後に、米国〜日本(パリーグ)〜米国のプロ審判員となった平林氏や、現セリーグ審判員の森氏なども一緒に講習会に参加をしました。

 現役プロ審判員の方が一つ一つの技術についてわかりやすく指導され、私は茨城県軟連の審判のことしか知らない、井の中の蛙、でしたので、プロの方や全国から受講された方と触れ合い、情報交換などもでき素晴らしい講習会でした。
 3日間の講習会を振り返ってみますと、私は思ったとおり下手くそ審判で未熟さがわかりました。

 受講完了者には外苑協会から記念として、1984・11・25の日付入りで、小さな盾の終了証が一人一人に手渡されました。
 その後本格的な審判活動の道を進むきっかけとなる講習会でしたが、そのときの講習会から間もなく20年が経とうとしていますが、書棚に飾られた小さな盾を見るたびに、このときの講習会で学んだことが思い出され、私の審判員としての出発点はこの外苑協会であり、初心忘れずの精神を心がけ邁進しています。

 私はこの講習会を受けた翌年の始めに外苑協会代表の栗原さんに、審判をやってみたいと電話をすると、快くOKの返事をいただきました。

 私の自宅から外苑までは電車を乗り継いで1時間40分ほど時間がかかり、少々辛い部分もありましたが、その後平成7年8月までの11年間、外苑軟式球場を主会場に遠くは東大和市や大宮健保グラウンド、また東京ドーム、西武球場、神宮球場、千葉マリン球場、川崎球場などでも審判をさせていただきました。

 また、TV朝日の番組では、たけし軍団の試合(昭和62年〜平成2年)で、神宮球場でのマラソン野球をはじめとして、17回(41試合)出させていただきました。

 外苑協会時代は、先に述べた平林・森・岡田(パリーグ)の現プロ審判員諸氏と僅かの期間ですが、一緒に審判をすることができたのは良い思い出です。
 またこの協会で審判のことを語り合える多くの友人を得ることができました。
 思い出が多く詰まった私の神宮時代でした。


(平成15年5月30日・記)



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