◇◇ 平田 東審判員 ◇◇


■その20
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 私が明治神宮外苑審判協会で本格的な審判活動を開始したのは、昭和60年2月の最初の日曜日から3週間(3日間)に亘るトレーニングからです。全軟連独特のスタイルが身に付いた悪い癖を、徹底して修正させられることから始まりました。

 外苑協会はアメリカンスタイルが主流で、当時すでにプロテクターはインサイドを使用している方がほとんどでしたので、私も大金をはたいてインサイドを含む審判用具一式を購入しました。
私はこの年から、アウトサイドからインサイドプロテクターに変えて球審をするようになりました。

 審判は2人制審判が多く、次いで1人制、3人制、4人制の順で試合があるとのことでしたが、私の知る限りの茨城県軟連の審判は、4人制で審判を行なっていましたので、外苑協会では1人制や2人制の審判が大半だと聞き、正直いって驚きました。

 野球の審判とは4人でやるものだと小学校時代から今日まで(当時)信じていましたので、面食らうと同時に、さすがは東京だと思いました。

 確かに野球規則書の1・01には、「野球は囲いのある競技場で、監督が指揮する九人のプレヤーから成る二つのチームの間で、一人ないし数人の審判員のもとに、本規則に従って行なわれる競技である」と記述されていることからみれば、一人での試合の審判もありうるということでしょうが、私は理解不足でした。

 4人制審判しか経験したことがない私が審判をするわけですから、最初は触塁を忘れたり、打球の行方ばかりに気をとられていたり、ベースカバーしなければならないときに行かなかったり、またその逆があったりで、冷や汗をかくことが多く一緒に組んだ先輩の審判の方は大変だったと思います。
 
 なんといっても4人分の審判を一人か二人、または3人でやるわけですから、それぞれのフォメーションを憶えるだけでも大変でした。
不器用で憶えの悪い私にも、外苑協会の方は最初から懇切丁寧にアドバイスをしていただきました。

 このような経過をたどり、昭和60年初春から外苑協会の見習い審判員となりました。
 余談ですが、昭和60年当時の茨城県でインサイドプロテクターを使用し、1人制〜4人制の審判を始めたのは私が最初だったのではないかと思います。

 昭和61年3月に、10年ほど務めた荒川区日暮里の会社を退職し、3月の野球シーズンのスタートから「審判を職業」として、その年の10月のシーズン終了までの7ケ月間審判に明け暮れました。

 同時にナイターのシーズンに入ると、ヤクルトスワローズの本拠地・神宮球場で、ファウルボール等の危険を観客に知らせる、笛吹き(ファウルボールやホームランのボールが観客席へ飛んできそうなきに笛を吹いて危険を知らせる)のアルバイトをシーズン終了までしました。
 神宮球場でのアルバイトが終わって自宅に帰りつくのは、夜中の12時を過ぎることがほとんどでした。

 この年、神宮球場で行なわれたセ・リーグのヤクルト戦がらみの試合は、すべて仕事として無料で観戦させていただきました。
 当然ジャイアンツの試合も全試合観戦しましたが、当時は王監督の時代で、江川・原・中畑・水野・篠塚・吉村・駒田・クロマティなどの選手が在籍し、審判員はすでに引退された富沢さんが審判部長を務め、丸山・岡田・松橋・大里・平光・久保田さんや、現在も活躍中の小林穀・井野・谷・友寄・橘高・渡田さん達のジャッジをみることができました。

 この年のセ・リーグの順位は、広島・巨人・阪神・大洋・中日・ヤクルトで、日本シリーズはパ・リーグの西武との間で戦われ、4勝3敗1分で西武が優勝しました。

 プロ野球の話題として阪神のバースが在籍していたときで、打撃練習では右翼席へ次から次へと柵越えの打球が飛び込み、日本人選手と比較して桁違いにパワーのある選手で、シーズンが終わってみると、バースは2年連続で三冠王を獲得していました。

 私は昭和61年の野球シーズンが終わりに近い10月末に、野球の審判だけでは家族を養っていけないと思い、現在も勤務中(嘱託)のM生命保険会社に就職しました。

 明けた昭和62年は、再就職したため審判の方は日曜日(当時土曜日は半日勤務)のみしかできず、昨年の467試合の審判活動に比べ107試合しかできませんでした。

 私は当時から(現在も同じです)外苑審判協会と地元(茨城県筑波郡伊奈町)の野球連盟に所属し、昭和60年から町野球連盟副会長と審判部長を兼務していましたので、外苑協会との兼ね合いで日程調整が大変でした。

 昭和62年は筑波郡6町村(谷田部町・大穂町・豊里町・筑波町・伊奈町・谷和原村)のうち、伊奈町と谷和原村を除く4町が合併して、つくば市となった年で、永々と続いた筑波郡野球大会は最後の大会として行なわれました。

 筑波郡大会は、5町1村の春季大会優勝と準優勝チームが出場する、文字通りの「筑波郡一」を決める大会でしたが、私の住んでいる伊奈町からは優勝チームと準優勝チームに変わって、オール伊奈で1チーム参加することになり、監督には私が選ばれました。

 町の野球連盟に登録されている有力選手をポジションごとにピックアップし、強力なチームを編成しました。
 大会では順調に勝ち上がって決勝戦に進出し、谷和原村の軟連一部登録の強豪ナショナル住宅と対戦し、雨の中での戦いとなりましたが、僅少の1点を守りきって1−0で優勝することができました。

 筑波郡最後の大会に優勝を飾ることができ、記念の優勝旗を町へ持ち帰り、優勝祝賀会は飲み屋さんを借り切ってドンチャン騒ぎの一夜を過ごしました。

 元号が平成に変わり、浅草在住で外苑協会長老審判員の佐々木究(ささききわまる)さんの野球人生70周年記念パーティが、1月22日に浅草のニューオータニ会館で行なわれ、私も出席させていただきました。

 佐々木さんは浅草・お寺の住職さんで、法政大学を出たあと独協大学の監督などを務められた経歴があり、元ヤクルト監督の土橋さんは軟式野球出身として有名ですが、そのチームの監督が佐々木さんでした。

 水島新司さんの漫画「熱球ハエどまり」の主人公としても登場し、70歳を超えても審判員。現役プレヤーで野球を楽しまれ、折に触れ審判の極意など教えていただきました。惜しいことに他界されました。

 平成2年1月17日には、富沢宏哉氏の公式戦3776(富士山の高さと同じ)試合出場記念パーティが椿山荘で行なわれました。会場には元巨人の9連覇監督川上哲治氏、現横浜ベイスターズ監督の山下大輔氏、その他に佐々木信也氏、プロ審判員諸氏、また大相撲親方の高見山など多数の出席者がありました。

 また平成2年秋に当時の大リーグ審判員ジム・エバンス氏が日米野球の審判で来日(夫婦同伴)の折に、外苑協会が歓迎パーティを開催し、エバンス氏とともに今は亡きパンチョ・伊東氏の出席もあり、本場アメリカの野球事情や審判に関しての話を聞くことができました。

 平成4年3月1日には、外苑協会員の平林岳氏がアメリカのプロ審判員として旅立つ壮行会が行なわれ、セ・リーグ審判員の富沢・井野両氏のほかに多数の来賓出席があり、外苑協会員とともに送り出しました。

 私は平成元年11月に茨城県軟連の試験に合格し2級審判員の資格を取得、次いで平成3年11月には1級の進級試験に合格、その後は2年に1度の登録更新を続けて、現在も資格は継続されています。

 平成6年3月には2泊3日の日程で、関東軟式野球連合会審判技術講習会が、山梨県甲府市の緑が丘市営球場を会場として、1都7県から選抜された60人余を集めて行なわれました。
 私も茨城県軟連の推薦を受けて参加しましたが、本当に厳しい講習会でした。

 朝食後はグラウンドまでランニング、午後4時頃まで試合形式を含む実技講習が過密スケジュールで組み込まれていました。
 打球の追い方や審判員同士の連携、ストライクやアウトまたセーフなどの手の上げ方、等々個人的に徹底してチェックされ悪いところは厳しく注意されました。
 夜は夕食後に座学が9時頃までありました。
 私は細々と悪いところを指摘されましたが、非常に密度の濃い講習会でした。

 こうして3日間の講習会は無事終了し、当時の審判技術講習会の修了証をみるたびに、厳しい講習会ではあったが、このとき教えていただいたことが現在の審判活動に大いに生かされていると思っています。
 本当に感謝、感謝です。

 茨城県では、この関東審判技術講習会に参加すれば、夏の高校野球選手権大会の審判員として出場できるとの噂がありましたが、私も平成7年に噂のとおり初めて夏の大会へ出場し、続く平成8年にも出場させていただきました。

 茨城県高野連の規定では夏の大会への審判員の出場は57歳まで。私もその規定により夏の大会は2年間のみで、合計6試合の出場でしたが、よい思い出ができました。

 私は足掛け11年お世話になった、明治神宮外苑審判協会を平成7年8月6日限りで、一身上の都合により辞めました。
 外苑協会では審判の初歩から教えていただき、損保や生保などの準硬式の試合、崇敬会や全農の大会などレベルの高い試合にも審判をさせていただき、技術を磨くことができました。
 特に当時の審判部長であった、河野氏の「基本を忘れるな」の一言は、今も私の脳裏に焼きついています。

 こうして思いで多き明治神宮外苑審判協会に別れを告げました。私が56歳のときでした。


(平成15年6月13日・記)



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