野球の起源と歴史&審判活動記録

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トラブルの記録・プロ野球編(1)(~1974年)

≪昭和23年(1948年)10月3日・阪神対巨人(甲子園球場)≫
 阪神・藤村の強引な本塁突入で、捕手武宮の失神を巡り、巨人の抗議で46分間の中断。 

≪昭和24年(1949年)4月13日・阪神対東急(西宮球場)≫
 右翼への本塁打の判定を巡って紛糾、阪神の提訴試合はミス・ジャッジで再試合となる。

≪昭和24年(1949年)4月14日・巨人対南海(後楽園球場)≫
 巨人三原監督が南海の筒井選手を殴打したことから乱闘となる。三原に出場停止処分。

≪昭和25年(1950年)8月14日・大映対南海(富山球場)≫
 捕球か落球かの判定で紛糾し、南海は試合続行を拒否。2リーグ制初の放棄試合となる。

≪昭和26年(1951年)5月6日・大映対阪急(後楽園球城)≫
 最終回の裏、本塁空過かどうかで1時間8分間中断、審判のミス・ジャッジが原因。

≪昭和28年(1953年)8月21日・名古屋対巨人(中日球場)≫
 巨人水原監督が筒井審判に執拗な抗議にファンが激高し、試合後巨人選手のバスを破壊。

≪昭和28年(1953年)9月8日・西鉄対毎日(平和台球場)≫
 角田球審の判定に対しファンが騒ぎ、試合後、同審判は警官隊に救出される。

≪昭和29年(1954年)5月5日・西鉄対毎日(平和台球場)≫
 西鉄の三原監督は、審判の判定を不服として暴力を振い、出場停止1週間の処分。

≪昭和29年(1954年)6月16日・近鉄対東映(中日球場)≫
 インフイールド・フライの宣告を巡って紛糾、1時間23分の中断後、試合を再開して試合は終わったが、近鉄からの提訴により、調査委員会は問題の個所から再試合を決定。

≪昭和29年(1954年)7月25日・阪神対中日(大阪球場)≫
 杉村球審の判定に納得せず、松木監督と藤村助監督が暴力を振い、ともに出場停止処分。

≪昭和32年(1957年)6月30日・阪神対中日(甲子園球場)≫
 走塁判定を巡る抗議で、判定を覆したため、ファンがグラウンドに乱入し20分間中断。

≪昭和33年(1958年)5月10日・東映対南海(駒沢球場)≫
 一塁アウトの判定に激高した山本八郎は、塁審を2度に渡って殴り無期限出場停止処分。 

≪昭和33年(1958年)5月28日・中日対巨人(中日球場)≫
 9回表に間一髪のプレーがあり、この判定に中日ファンが暴徒化し、56分間試合中断。

≪昭和34年(1959年)7月19日・大洋対西鉄(後楽園球場)≫
 一塁での同時はアウトかセーフかで抗議の三原に対し、二出川は「俺がルールブックだ」

≪昭和35年(1960年)4月19日・阪神対中日(甲子園球場)≫
 左翼フェンス際への打球、二塁打かホームランかでもめた誤審騒ぎで54分間試合中断。

≪昭和36年(1961年)4月29日・近鉄対阪急(日生球場・夜間)≫
 走者一塁から二盗、打者が空振りした際に妨害かどうかでもめ、1時間20分間中断。

≪昭和36年(1961年)7月9日・東映対大毎(駒沢球場・夜間)≫
 三塁への走塁で、山本八郎が主張する走塁妨害かどうかでもめ、1時間30分間中断。

≪昭和37年(1962年)5月26日・国鉄対中日(後楽園球場)≫
 右翼線打球をファールと勘違いした川野線審が、ボールを拾ってしまう珍事件。

≪昭和38年(1963年)8月29日・南海対阪急(大阪球場)≫
 雨による試合中断が史上最長の2時間14分に及ぶ。

≪昭和39年(1964年)6月7日・南海対近鉄(大阪球場)≫
 スタンカ投手の児玉に対する「死球かファウルか」で紛糾し、両軍入り乱れての大乱闘。

≪昭和39年(1964年)6月30日・広島対阪神(広島市民球場)≫
 阿南のバントが小飛球、石川投手が直接捕球したかどうかで、稲田球審の判定変更などでもめ、2時間29分間中断のあと、主催チームと審判団の協議の末、ノーゲームを宣告。

≪昭和42年(1967年)4月25日・阪急対南海(西宮球場・夜間)≫
 6回裏、阪急が無死一塁で森本の右翼線の打球がフェアかファールかでもめる。判定に不満の阪急ファンが騒ぎ、グラウンドになだれ込み、試合が23分間中断した。

≪昭和42年(1967年)8月27日・阪神対大洋(甲子園球場・夜間)≫
 9回裏阪神の攻撃で二死後、山内が左中間に大飛球を打ち上げた。センターの近藤和はこの打球に追いつき、一度捕球したが直ぐに落球。山内は二塁へ。
 近藤和から捕球の際、スタンドからウイスキーのビンが投げ込まれて、プレーに支障をきたしたと抗議、審判団も守備妨害を認め試合は終了した。中断時間は35分にも及んだ。

≪昭和42年(1967年)9月20日・中日対巨人(中日球場・夜間)≫
 7回裏巨人の攻撃、金田が走者で無死一塁、柴田が左翼線に安打し、二塁打のケースだったが、金田が二塁にストップしたため柴田は一・二塁の中間から一塁へ戻った。
 左翼から一塁に球が転送され柴田は滑り込んだが判定はアウト。怒った柴田は一塁塁審の円城寺を二・三度小突き、荒川コーチもセーフを主張したところ、判定はセーフに変更された。円城寺塁審のミス・ジャッジにより、試合は1時間8分にわたって中断された。

≪昭和42年(1967年)9月23日・阪神対大洋(甲子園球場・夜間)≫
 1回表、先攻の大洋は3点を先取し、なお二死満塁の場面で、打者森中のカウント2-0後、ワンバウンドの球を空振り、この球を拾った捕手の和田は、そのままマウンド付近へボールを転がした。これを見て三塁走者は本塁を踏み、森中も一塁へ駆け込んだ。
 振り逃げがきっかけで、阪神側がアウトを主張して最後まで納得せず、中断時間は55分に及んだが、審判の試合再開要請に応じなかった阪神に、放棄試合が宣告された。

≪昭和43年(1968年)9月18日・阪神対巨人(甲子園球場・夜間)≫
 4回までに1-0とリードした巨人が、5回の表に安打、敵失などで4点を加え一方的にリード。阪神の投手バッキーは、王に対して2球続けてのビーンボールに、王がバッキーに詰寄ったところで、巨人コーチの荒川がバッキーに殴りかかり、バッキーもパンチで応戦。
 バッキーは右指骨折で全治三カ月、王は死球退場となり、大観衆を忘れたお粗末な試合となった。

≪昭和45年(1970年)5月23日・東映対近鉄(後楽園球場・夜間)≫
 1回裏、東映の攻撃で走者一塁、打者白仁天のボールカウントは2-0、第3球目は外角低めへ、この球を球審の露崎はストライクと判定し、白は三振となった。
 白はボールだと言って露崎球審へ抗議した後、倒してスパイクで蹴り、この与太者行為に観客は唖然の態。暴行を受け胸部にケガを負った露崎審判は、東京・富坂署に告訴した。

≪昭和46年(1971年)7月13日・阪急対ロッテ(西宮球場・夜間)≫
 7回裏ロッテの攻撃で、先頭打者江藤は2-1から4球目を見逃し、ボールと判定されたが、その直後にスイングしたと砂川球審から三振が宣告された。
 ロッテの濃人監督やコーチがベンチから飛び出して、審判団と小競り合いとなり、ファンもグラウンドへなだれこんで騒然となった。
 ロッテ側が最後まで判定に納得しなかったため、審判団はロッテに放棄試合を宣告した。 

≪昭和47年(1972年)5月23日・南海対西鉄(大阪球場・夜間)≫
 7回表、西鉄・大田の左翼への打球の判定をめぐって、ファールからフェアに判定が覆ったことから、大もめとなり58分間の中断となった。(左翼線審・寺本)

≪昭和49年(1974年)4月27日・ロッテ対太平洋(川崎球場)≫
 宮寺の走塁妨害が発端で、試合そこのけ大乱闘、金田監督とビュフォードが退場処分。

≪昭和49年(1974年)5月23日・巨人対阪神(甲子園球場・夜間)≫
 二塁送球の落球を巡って、判定を覆した審判団の不手際から紛糾、27分間試合が中断。

≪昭和49年(1974年)7月9日・大洋対巨人(川崎球場・夜間)≫
 2回表、巨人の攻撃で、打者河埜への投球が死球かファールかで紛糾。(球審・平光)

≪昭和49年(1974年)7月16日・巨人対中日(後楽園球場・夜間)≫
 4回裏巨人の攻撃で一死一塁、堀内のバントを星野がワンバウンドキャッチし一塁へ転送、一塁走者は一塁に留まった状態で、一塁手がベースへ触れたのが先か、一塁走者にタッチした後に一塁ベースを踏んだかで紛糾。26分間の中断(一塁塁審・大里)

* 次回に続く

 (2010年5月1日)


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