野球の起源と歴史&審判活動記録

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≪大学野球関係のトラブルの記録≫

* 昭和30年10月14日・東京六大学野球、明大対立大1回戦(神宮球場)
 ≪外野飛球でもめ、明・立戦で観衆さわぐ≫
 3回表・立大2死走者二塁のとき、保坂の打球が左中間に飛んだ。 
 かなりの難球で沖山左翼手は好走し、スライデング・キャッチして見事に捕えたかに見えた。二塁の宇野塁審も右手を上げてアウトを宣した。
 立大側はこのプレーに不審を抱いて抗議、左中間外野席の観衆20数名がフェンスを乗り越えてグラウンドに飛び出し、これをなだめる立大選手、係員、警官まで出動して鎮める騒ぎとなり、試合時間は15分間の中断となった。(試合結果・立大8-1明大)

* 昭和31年4月15日・東京六大学野球春季リーグ・慶大対法大2回戦(神宮球場)
 ≪相田球審、塁審に尋ねて“アウト”から“セーフ”へ変更・もめて72分間中断≫
5回裏・慶大の攻撃で走者一塁、榊原が中田の左越え長打で一挙に本塁に滑り込んだ。捕手古川は一瞬タッグしたかにみえ、激突して足をすくわれたような格好で前にのめったが、相田主審はタッグがあったとみてアウトを宣告した。

 このとき慶大ベンチから稲葉監督と選手たちが捕手の落球でセーフだと抗議し、相田主審は三塁の真田塁審に意見を求めたところ、真田塁審は落球を認めたので、相田主審は判定を覆してセーフと宣告し直した。

 これに対して法大は、長谷川監督、岡崎投手らが抗議したが、受け入れられなかった。
 このとき一塁側の法大側スタンドから二、三空ビンがグラウンドに投げられ、法大学生やファンが10数名乱入し、40数分後に収まるかにみえたが、再び乱入するなどして混乱し、72分間の中断となった。
 72分間の中断は、昭和28年春季リーグの法大対立大戦で、渡辺投手のボークに抗議した1時間15分(75分)に次ぐ、長い中断となった。(試合結果・慶大8-3法大)

* 昭和33年5月18日・東都大学春季2部リーグ、青山学院対成蹊大1回戦
 ≪青山学院大学に、秋まで「試合禁止」処分・球審殴打事件≫
 成蹊大が2-0とリードした6回裏、青山学院の攻撃のとき、成蹊大の松本投手の一塁牽制モーションがボークではないかと、青山学院の清水主将が猛烈に食い下がったが、新谷球審はこの抗議を取り上げなかった。

 清水主将はボークではないという説明を求めようとしたが、球審が全然受け付けなかったので、一塁の毛利塁審が説明をし、清水主将はやっと引き下がった。
 試合は青山学院が逆転勝ちして選手一同更衣室へ引きあげる途中、たまたま清水主将と一緒になった新谷氏が「抗議の仕方が学生選手らしくない。今後もあのような態度を取ったら退場を命ずる」と注意したところ、清水主将が「どうしてボークではない説明をしなかったんだ」と口論になり、毛利塁審などが中に入ったが、新谷氏が立ち去るとき、清水主将が背後から顔面をなぐり、抵抗しない同氏の横腹などを殴打した。
 東都大学野球連盟最大の不祥事で、青山学院大は秋まで試合禁止処分が下された。

* 昭和38年9月15日・東京六大学野球秋季リーグ、明大対立大2回戦(神宮球場)
 ≪明・立戦で選手がけんか≫
 8回、立大2死二塁のとき、捕手が牽制球を送った。走者の土井は二塁に帰ったが二塁をカバーした住友にスパイクされた。土井はセーフになったが、靴の皮が破れ足に達する傷で退場した。

 この事故を住友の故意と見たのか、住友とは浪商時代の同級生である立大前田一塁手がベンチから出てきて、「間に合うのだから乱暴はするな」と文句をつけた。
 住友は「お前に関係ない。偉そうな口をきくな」と突いた。前田は思わず手を出した。
 これで住友がカッとなり、前田をけり、逃げる前田を追いかけてグラブを投げつけた。
 審判員や両チームの監督、選手が素早く両者を分けたので、それ以上の乱闘には至らなかった。
 明大の倉島主将は、責任を取って出場停止、立大の前田選手は決勝戦出場を辞退した。

* 昭和41年4月26日・東都大学野球春季リーグ、日本大学対亜細亜大学2回戦
 ≪日大―亜細亜大の応援団がヤジをめぐって乱闘≫
 8回表、日大の攻撃で三塁側の日大ブラスバンドが吹奏を始めたところ、一塁側の亜細亜大応援団からヤジを飛ばしたらしく、日大応援団の関口渉外部長ら約10人の団員が亜細亜大応援団席にかけつけ、「ブラスバンドの吹奏中にヤジを飛ばすとはけしからん」と注意した。

 これを見た亜細亜大応援団員の一人が、日大応援団員が通路階段から入ってくるのを止めようとして、逆に日大側の一人にいきなり突き飛ばされた。
 これがきっかけとなって両校応援団員約20人が入乱れて応援団席で殴り合い、一人がけがをした

 日大―亜大3回戦は延期となり、両校は春季リーグの残り試合を出場辞退し、秋のリーグは2部に転落することになった。
 これまでの応援団事件での辞退は、昭和38年6月、関西六大学の1部・2部の入替え戦、龍谷大―大阪商大戦で竜谷大応援団の暴行があり、龍谷大が出場を辞退した。

* 昭和45年5月22日・東都大学野球春季リーグ、芝浦工業大対亜細亜大(神宮球場)
 ≪亜大応援団・球場で木刀かざしなぐり込み、・・・芝工大生10人けが≫
 8回裏が終わったとき、松本副団長らが芝工大のスタンドに行き芝工大学友会幹部と、エールの交換をすませてから校歌を歌うなど、試合終了後の応援方法を打ち合わせた。

 ところが試合が終わると、勝った芝工大側は正規の応援団がないため、学生たちが喜びのあまり校歌を歌い始めた。怒った亜大応援団が殴り込みをかけたらしい。
 亜大応援団は、35年に誕生したが、44年夏、行動に行き過ぎがあるなどの点から解散命令を受けた。
 この日の殴り込みを目撃したあるファンは、「亜大の応援団員は“殺してやる”と大声で叫んでなだれ込んだ。学生とはいえない。暴力団とまったく変わりがない」と話していた。

* 昭和45年9月23日・東都大学野球秋季リーグ、日大対中大1回戦(神宮球場)
 ≪日大応援部員が乱暴・中大生を取り囲み・・・野球に負けた腹いせ≫
 神宮球場前路上で日大応援部員約20人が、中大応援団団員5人に棒切れなどで暴行。
 このため中大応援団の大槻一郎君(20)が頭や顔に1週間のけが。他の4人も打撲傷などで5日から1週間のけがをした。

 乱暴したのは日大応援部の下級生で、この日神宮球場で行われた東都大学野球リーグ戦で、日大が中大に負けたため、ささいなことで腹を立てての行為とみられている。
 日大生20人はいずれもパトカー到着前に姿をくらましたが、同署では春に次ぐ同リーグ応援団暴力事件を重視。暴力行為と傷害事件として徹底的に調べると話している。

* 昭和46年4月10日付け新聞報道
 ≪愛知学院大学野球部で新入部員リンチ事件≫
 同校は宮崎県都城市で行われたキャンプ中に、2年生が1年生に集団リンチを行い、バットで殴ったりしたため、肉離れや内出血などの腰や足が腫れ上がるなどの被害者が出た。上級生から「しごきのことを漏らしたら殺してやる」と脅迫などもされたという。

 日本学生野球協会審査室は4月23日、春季リーグ戦終了まで一切の試合を禁止する処分を下した。

* 昭和47年10月15日・東京六大学野球秋季リーグ、早大対明大2回戦(神宮球場)
 ≪明大ベンチ・守備妨害と抗議、一時選手全員引き揚げ≫
 8回、早大は1死一・三塁で西村が二塁ゴロ、このとき一塁走者小野が二塁へ走る途中でつまずきかけバランスを保とうとしたのか両手を上げるような格好になった。

 その左手に併殺を狙った遊撃手の送球が当たり、球が大きくそれる間に三塁から清水がかえり同点、打った西村も二進した。
 明大は小野の行為は「守備妨害だから併殺で無得点」と激しく抗議。一時は選手を全員ベンチに引き揚げさせるなど険悪になったが、加納明大先輩理事や山川主審らが明大側を説得し14分間の中断後、試合は再開された。
 麻生二塁塁審は「手に当たったのは認めるが故意ではないと判断した」と話した。

* 昭和50年9月7日・東京六大学野球秋季リーグ2回戦、明大対東大(神宮球場)
 ≪東大ハツラツ明大連破・流れを変えた走塁妨害、今後に問題残す≫
 5回の走塁妨害をめぐって試合は中断、守備についていた明大側がベンチに引きあげるなど、一時は険悪な空気に包まれた。

 おまけにこの判定が勝負を大きく左右したとあって、試合が終わった後も勝利に大騒ぎの東大ベンチとは対照的に、「あんな判定は、はじめて、けしからん」と明大・島岡監督は顔を真っ赤にして激昂。

 5回、東大の攻撃は1死一塁で打者は渋沢。その三球目、明大の投手石田が一塁に牽制球を投げた。捕球した一塁手の伊藤が走者の富田にタッグ。このとき、一塁塁審の西大立目氏(早大OB)は、伊藤一塁手が右足で富田が滑り込もうとする一塁ベースの内側をブロックしたとして、野球規則「7・06」によって富田を二進させた。この富田、渋沢の一塁ゴロで三進したあと、伊藤の遊撃右への内野安打で同点の本塁を踏んだ。

 明大島岡監督の言い分は「23年間監督をやってきたが、あんなことで走塁妨害をとられたのは初めて、いや、プロも含めて日本中でも初めてだろう」とまくしたてた。
 一方の西大立目氏は「私の信念はかわらない」と言葉少なく姿を消した。

* 平成5年4月21日・東京六大学野球応援団員暴行事件
 ≪六大学野球「貧血で旗落とす、失礼だ」早・慶部員に暴行、旗手の頭を刈る≫
 試合前に行われる応援セレモニーなどで校旗の扱いをめぐり、法政大学応援団員が早大、慶大両応援団員を殴る、蹴る、無理やり髪を刈るなどの暴力事件を起こしていたことが発覚。
 事件の発端は4月21日。六大学の応援団員が集まって慶大日吉キャンパスで行われた春のリーグ戦の応援セレモニーの時に、法大4年生が応援歌を歌っていたとき、後ろで校旗を持っていた早大応援団の旗手が貧血を起こし、校旗を持ったまま倒れた。

 これに対し、法大応援団員は「だらしがない。他校が旗を掲揚しているのに失礼だ」と激怒。その場で校旗を持っていた早大部員を殴り付けた。

 さらに事件の2日後に応援団の部室がある同大富士見キャンパスに旗手を含む早大応援団員3人を呼び付け、旗手に対してはその場でハサミを入れ、頭を丸めさせた。さらに先月25日に行われた、法大対慶大戦でも暴行事件を起こした。

 試合前に行われるエール交換の際、法大応援団員は「慶応の旗が小さい。失礼だ」などと因縁をつけ、慶大応援席近くで慶大応援指導部員2人を殴り付けた。

* 平成5年5月15日・東京六大学春季リーグ戦、明大対慶大1回戦(神宮球場)
 ≪インフイールド・フライでもめる≫
 慶・明戦の1回裏、慶応が1点先取し、なお1死満塁で事件は起こった。丸山の二塁後方の飛球に「インフイールド・フライ」が宣告された。打球は内野に落ちたが打者はもちろんアウト。

 ボールは二塁に転送された直後に、佐藤塁審が間違ってフォースアウトを宣告。これに長沢球審が気を取られ、続く本塁のクロスプレーを見逃すミスが重なってしまった。
 慶大・前田監督から「プレーを見ずにアウト」の宣告をした球審に対しての猛抗議があり、試合は30分間にわたって中断した。
 審判員のミス・ジャッジと不手際が重なって起きたトラブルであった。

* 平成5年5月22日・東京六大学野球春季リーグ戦、明大対法大1回戦(神宮球場)
 ≪あわや乱闘、明・法V決戦ドロー≫
 6回裏、明大の攻撃で走者一・三塁、中村豊は一塁ゴロ。
この時、一塁走者鳥越が二塁ベースカバーに入った法大・菊池へ併殺崩しの猛スライディングを見せた。

 左太ももを強打した菊池は転倒。起き上がるやベンチへ戻ろうとする鳥越に掴みかかる勢いで激怒した。
両軍ベンチからナインが全員飛び出し、マウンド上でにらみ合う場面となったが、優勝が絡んだ大事な一戦でもあり、お互いの闘志が激しくぶつかった試合の一幕であった。

* 平成8年10月14日・東京六大学野球秋季リーグ、明大対立大4回戦(神宮球場)
 ≪失われた名誉・東京六大学、明大―立大戦で前代未聞の大乱闘勃発≫
 9回表、明大・安田の一塁ゴロを捕球した立大・長島の何でもないタッグプレーがきっかけとなり、乱闘劇は始まった。

 両軍ベンチから全選手が入乱れて激しいもみ合い。その際、ベースカバーに入った立大樋渡に対し、明大の選手数人が殴る蹴るの暴行を加えた。息ができず動けなくなった同選手は近くの病院へ運ばれ、右側胸部挫傷で約2週間の加療を要すると診断された。

 過去に例を見ない騒動に、スタンドからファンのバ声が飛び交い、ついにはパトカーまで出動する事態に学生野球の聖地・神宮は異様な空気に包まれた。
目に涙を溜めて担架で運ばれる選手、試合後、帽子を目深に被り逃げるように球場を後にする選手・・・とうてい学生野球とは思えない情景であった。

 負傷者まで出した今回の事件を重く見た東京六大学野球連盟は、翌15日、連盟事務所で緊急理事会を招集。明大側の申し出を受理する形で、暴力行為に及んだ5選手、荒井監督の今季残り試合の謹慎、並びに山口部長、別府総監督の辞任という六大学では前例のない重い処分を下した。


 (2010年6月15日)


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