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野球体育博物館へ行って来ましたァ!


#47 Ump.


 2007年9月18日(火)の早朝、ニューヨーク34丁目にあるペンシルバニア・ホテルのロビー。

「#47さん、おはよう御座います!」とワゴン・タクシーのドライバー。
「おはよう御座います。お世話になります。宜しくお願いします」と#47。


National Baseball Hall of Fame & Museum


 #47等を乗せたタクシーはマンハッタンのハドソン河に架かるジョージワシントン橋を渡った。
向かった先はクーパース・タウンにある「アメリカ野球殿堂博物館(National Baseball Hall of Fame)」でした。


 
野球殿堂の内部(ベースボールに貢献した人々、名記録を残した選手等のプレートが飾られている)
 
ベースボールが誕生したと云われるDoubleday Field(後に誤りと訂正された)


「高速道路で三時間超のドライブか・・・」というところで2013年2月10日(日)の眼が覚めました。時は丁度、朝6時半。そうだ!今日は予定も無い事だし「野球博物館へ行って夢の続きでも見るか!!」と思い立ったんです。


 
野球体育館が併設されている東京ドーム。ミネアポリスのメトロ・ドームを模して建てられた。
 
野球殿堂の内部


 野球博物館、正式には「野球体育博物館(The Baseball Hall of Fame and Museum)」と云うんだそうです。体育の一つとしての野球という意味合いか・・・?と私なりに推察しました。ここを訪れるのは今回で二度目であります。

 午前11時半、入場料¥500(年齢65歳を自己申告すると¥300)を払い、地階の展示室へと向いました。日曜日にも関わらず館内は意外空いていました。ここでは野球に関するいろんな事を各人各様に見たり、感じたり、楽しめたりする場所です。

 前回訪れたときは、ミズノテクニクス㈱のバットマイスター(バット名人)久保田五十一氏の「バット製造実演とトークショー」が開催されていました。
 実演終了後、30分位の間個人的に歓談させていただき、久保田氏自ら名刺を私に下された良い思い出があります。

 今回は、WBC(ワールド・ベースボール・クラシック)を間近に控え、特別企画展が開催されていました。
 
 私の今回の目的は、野球の伝来と発展の経緯を再認識することでありました。


神田・錦町にある「日本野球発祥の地」のモニュメント。
 この地には第一高等学校があり、日本で野球の歓声が初めて轟いた場所である。


 そこで、日本野球に貢献した10傑(正確には11傑)を私なりに選んでみました(独断と偏見です)

 ①ホーレス・ウイルソン、②平岡煕、③中間庚と正岡子規、④内村祐之、⑤正松松太郎、⑥沢村栄治、⑦佐伯達夫、⑧金田正一手、⑨長嶋茂雄手、⑩王貞治、以上11名です(敬称略しました)

 日本へ野球を伝えたのは1972年(明治5年)、明治政府の雇用契約で来日した英語教師のHorece Wilsonであると伝えられています。ウイルソンは東京神田にある第一番中学校(東京大学の前身)で学業を教える傍ら、生徒等にベースボールを教えたとされます。彼は学業に厳しいことで有名でしたが、それ以外では優しかったようであります。また、ヒゲのカタチが鯰に似ているところから付いたあだ名が「ナマズ」と呼ばれ生徒たちに親しまれたようです。また、横浜の外国人チームとの親善試合では三番左翼手として先発したようです。ウイルソンが来日していなければ、野球伝来はもっと遅くに、そして今の容とは違ったものとなっていたのではと推察しました。


 
Horece Wilson
 
ホーレス・ウイルソンのプレート 2003年殿堂入り


 平岡煕(ひらおか・ひろし)は1971年(明治4年)に鉄道機関車両や車両製造技術研修と習得でボストンへ留学。その際にベースボールに勤しみ「カーブ」をマスターしたようで「ハイローシ(ヒロシ)」とか「ハイローシ・ハイローカ(ヒラオカ・ヒロシの意)」と呼ばれ女の子に持てたようです。
 1876年(明治9年)に帰国した際に赤いボール三個とバットを持ち帰り、野球の普及に努めました。また、1988年(明治11年)に日本で最初のクラブチーム「新橋アスレチックス俱楽部」を創設、「日本野球の開祖」といわています。


 
若かりし頃の平岡煕
 
平岡煕のプレート 1959年殿堂入り


 中馬庚(ちゅうまん・かなえ)は1894年(明治27年)に「Baseball」を「Ball in the field」から「野球」と命名した教育家です。「野原で興じる球合戦」からヒントを得て「野球」と訳したのではないかと私は推察するんですが・・・、いかがでしょうか?一方、アメリカのベースボールは「ラウンダー(ベースをまわる)」と云う球技名が変じてベースボールになったのではないかと、それに日本の野球にはベースという観念が無かったように私には思えます。これも私の独断独善ですが・・・・。


中馬庚のプレート 1970年殿堂入り


 1890年(明治23年)には幼名の「昇」から「野球(のぼーる)」という雅号を使用していたと云われる正岡子規。しかし「Baseball」を「野球」と訳したのは中馬庚だそうです。
 一方「Batter」、「Runner」、「Four Ball」、「Fastball」、「Flyball」等の野球用語を「打者」、「走者」、「四球」、「直球」、「飛球」と訳したのは子規でした。なんと名訳ではありませんか・・・。

 この様な訳語も野球普及には大きな影響を与えたかもしれませんネ。


平岡煕から野球を学んだ正岡子規。捕手として楽しんだ


 2006年7月には上野恩賜公園野球場が「正岡子規記念球場」と改称され、子規が詠んだ「春風や、まりを投げたき、草の原」の句碑が建てられました。


正岡子規のプレート 2002年殿堂入り


1897年11月、思想家で有名な内村鑑三を父として生を受けた内村祐之。
東京第一高等学校、東京帝国大学に進んだ精神科医で、学生野球興隆時の一端を担った選手の一人です。一高時代には早稲田や慶應義塾を破り「一高の左腕、内村ここにありき」といわれました。


 
「Baseball Hand Book」内村祐之検閲、神田順治著 明治24年発行
 神田順治は東京大学体育会硬式野球部監督で内村祐氏之の指導も受けていたようです。
 
「アメリカ野球物語」内村祐之著 明治34年は発行
(両冊とも筆者所蔵)


 1918年には15年ぶりに自高を優勝へと導き、以降早慶戦などの大学野球が隆盛を極めました。
また、1962年5月に日本野球機溝の第3代コミッショナーに就任し「新人研修制度」を取り入れようとしましたがオーナー側の反対にあい、辞職を余儀なくされました。歴代のコミッショナーでオーナー側と対立しコミッショナー職を辞したのは内村ただ一人だそうで、大リーグ通の知識人であり硬骨漢でもあったようです。巨人軍がV9時代に用いた「ドジャースの戦法」は内村の翻訳になるものです。


 
内村祐之の若かりし頃
 
内村祐之のプレート 1983年殿堂入り


 正力松太郎は1934年(昭和9年)職業野球俱楽部に前身となる大日本野球野球俱楽部(現讀賣巨人軍)を創設し、1936年(昭和11年)に開催された第一回職業野球日本リーグに参加しました。
「大リーグに追いつけ、追い越せ」とプロ野球の隆盛に貢献した功績を今更語る必要はありませんネ。
 1959年には野球殿堂入りの第一号となりました。また、日本プロ野球に貢献した選手、関係者へ「正力松太郎賞」が送られているのはご承知の通りです。
 が、しかし大正力以前も以後も、巨人軍主体のプロ野球運営に弊害も出て来ている昨今のプロ野球であります。巨人軍人気が陰りを見せ始め、終には系列の日本テレビでも中継されなくなったのは記憶に遠いものではありませんネ。


正力の前に正力なし、正力の後に正力なし。大正力といわれた讀賣新聞社社主、正力松太郎。

 
 
1959年(昭和34年)殿堂入第一号の正力松太郎のプレート


 気になる野球人口低減も巨人軍の所為・・・???

 不世出の大投手、沢村栄治は1934年の日米野球で大リーグの、あの大打者Babe Harman Ruthを三振に切って取り野球ファンの溜飲を大いに下げてくれたようです。当時、沢村の球速は1マイル(160キロ)を超えていたのではないかと云われていますがその真偽は定かではありません。しかし、彼の速球が大リーグの各打者をバッタバッタと切って落す様が野球ファンの拡大には充分すぎました。


 
沢村栄治のダイナミックな投球フォーム
 
沢村栄治のプレート 1959年殿堂入り


 高校野球を「教育の一環」と位置付け、「高校野球はプロ養成機関ではなく、人間形成の場」としてアマチュアリズムを謳いあげ今日の発展隆盛に導いた全国高校野球連盟第3代会長、佐伯達夫の功績は大なるものがあります。高校野球は地域住民が一喜一憂し、全国民が熱中する日本最大のイヴェントであり日本文化の一つであると云っても決して過言ではないのですから・・・。


佐伯天皇といわれ常に「現場主義」を貫いた佐伯達夫

 
 
佐伯達夫のプレート 1981年殿堂入り


 1958年4月5日、後楽園球場で行われたシーズン開幕の巨人対国鉄スワローズ戦は超満員でした。
 先発登板した国鉄スワローズの左腕、金田正一は巨人注目の大型ルーキー、長嶋茂雄から四打席連続四三振を奪いました。「これがプロやネン。アマチュアーとは全然違いまっせッ!」とプロの意地を見せてくれましたネ。前人未踏の、これからも叶う事のないであろう400勝利、4490奪三振、打者数5526.2はNPBに敢然と輝く大記録です。打者数5526.2で通算防御率2.34は素晴らしいものです。


黄金の左腕、金田正一

 
 
金田正一のプレート 1988年殿堂入り


 そして、長嶋茂雄は立教大学で大学通算本塁打8本の記録を引っさげて1958年讀賣巨人軍へ入団しました。しかし、神宮のヒーロー、プリンスと評されて入ったプロの世界はそんなに甘いものではありませんでした。開幕戦で金田に4打席連続三振した打席全てがフルスイングだったと伝わっています。 

四打席四三振を喫した長嶋のフルスイング


 それ日以来、長嶋にプロ球界での大なる教訓と試練を与えたのは金田その人であると私は信じて止まないのであります。そして長嶋は押しも押されぬ球界の大スターになりましたネ。そのあだ名はMr.まさに日本プロ野球界のミスターに上りつめたのです。

展覧試合で本塁打を放ちベースを廻る長嶋茂雄。その前方にはガックリとうなだれる村山実。


 1959年6月5日、後楽園球場の阪神戦でライバル村山実から放った打球は天皇陛下が見守る中、左翼スタンドへ一直線に飛び込みました。プロ野球史上初の天覧試合本塁打となったのでありました。
 長嶋は末代まで圧倒的な思い出と記憶に残る不世出の大選手であろうと推察します。


長嶋茂雄のプレート 1988年、金田と共に殿堂入した


 世界の王貞治。長嶋と共にON砲と呼ばれたV9選手の一人で「ワンちゃん」と野球ファンから親しれました。通算本塁打868本はまさに世界の王です。本塁打量産のきっかけとなったのは1961年のオフに荒川博を打撃コーチに迎えて開眼した「一本足打法」でありました。以来、年間本塁打55本、江夏豊との名勝負、そして史上初の三冠王獲得などと記録の枚挙に暇がありません。


王貞治の一本足打法。Flamingo打法ともいわれた。


 真摯で誠実な人柄は、時として選手に「王監督のために何が何でもやってやる!」という気概を持たせたようでもあります。2006年に開催された第一回World Baseball Classicでは監督を務め、二次予選敗退か?と思わせましたが、失点率で他の三チーム(アメリカ、韓国そしてメキシコ)を上回り辛うじて準決勝に駒を進めることが出来ました。その準決勝では宿敵、韓国に6-0で快勝。翌々日3月20日の決勝戦では優勝候補のメキシコ相手に10-6で辛勝し初代優勝監督になりましたネ。


 
失点率を伝えるTV画面(WBC特別企画展のTV画面より)
 
第一回WBCで優勝した王監督のユニフォーム、キャップそれに優勝リング


 この大会の最大の山場は準決勝の韓国戦でありました。その前の韓国相手の二戦には全敗を喫しており、王ジャパンにとって絶対負けられない試合でした。イチローをはじめ各選手が「韓国に負けてなるものか。負けたら日本のプロの恥だ」と奮い立ち、王監督を見事男にした大会でした。選手全員が王監督の心意気に燃えたようです。選手みんなが王監督に「男粋」を感じたんでしょう・・・。


王貞治のプレート 1994年殿堂入り


 以上記したように、我が国の野球は大学野球から浸透し、プロ野球そして高校野球へと拡がりました。

 野球は本当に素晴らしいスポーツです。こんなスポーツは他にありませんネ。

先人(この項で紹介出来なかった多くの先人も含み)が惜しまなかった努力、築き上げた功績を絶やすことが無いように、市井の野球ファンの一人として、またアマチュアー審判員の一人として野球発展に寄与し、その先を見守って行きたいと思う今日この頃であります。

 たまには、我が国の野球の歴史を振り返ってみるのも良いものですネ!

 なお、千葉県船橋市東中山には吉澤野球博物館があります。早稲田大学出身の吉澤善吉氏が私財を投じ、収蔵する品や資料を基に1979年(昭和54年)に設立した博物館です。


 

吉澤野球博物館の陳列

吉澤野球博物館
 


 我が国の野球の原点とも云うべき東京六大学野球の資料が豊富です。


吉澤博物館理事長の直筆サイン「吉澤善吉 2009.4.15」と記されている


 興味のある方は開館日や開館時間を調べてからお出掛けください。

Have more fun and enjoy umpiring!


 編集後記/明治初頭の学制野球では捕手以外防具をつけておらず、野手は素手でプレーしていたようです。また、試合の審判を務めたのは各大学の教授などが多かったようです。

 そして、先人の審判員には先見性に優れ、卓越した見識の広い方々が多かったようです。

 野球の発展には多くの審判員が関与したことを忘れないで欲しいと思います。

『俺がルールブックだ!』と言って審判の権威を守った二出川延明(元パ・リーグ第2代審判部長)


二出川延明のプレート 1970年殿堂入り


 国際基準の審判技術を習得し、その普及に努めた西大立目永(元日本野球規則委員会委員長)の功労も見逃すわけには行かないでしょう。


アマチュアー審判員の大なる功労者、西大立目永


 野球をする上で審判員のいない試合を想像したことがありますか?

 ボール/ストライク、アウト/セーフ、キャッチ/ノーキャッチ、フェアー/ファウルを誰がコールするんですか?

 試合が全然進まなくなりませんか?本当につまらないものに成りはしませんか?

 審判員の役割、重要さ、必要性をもう一度ご理解ください。

 審判員はモチベーションを常に高くして試合に臨んでいます。いつも真剣です。真剣です・・・。

We love baseball umpire. Always be hustle and have enjoy umpiring!


(2013/2/15)


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