派遣審判員の歴史と今後の展望と役割 審判用マスク
甲斐 雄之助

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 今回は1980年代の審判活動について思い起こします。この時代は経済発展と共に社会基盤の安定、そして60歳台半ばを迎える戦後生まれの団塊の世代が30歳台に入り、若者が社会活動の原動力となりました。

 レジャー及びスポーツにおいても活動規模が発展し続けた時代でした。このような社会情勢のなかで企業、団体及び健康保険組合等の行う親睦行事・福利厚生事業におけるスポーツ部門での野球の大会、或いはリーグ戦が活発に行われました。

 この種の催しは各種連盟等主催の催しと異なり、審判の依頼は連盟外の審判組織へ多くが集まりました。この依頼は年々活発化しました。今思えばこの種の催しの全盛期でありました。

 催しの内容(第1〜2回参照) は実態と体験に示すように野球における社会人・学生等の全分野にわたりました。

 依頼される審判員の構成は複数審判制(二人制・三人制)が多く、一人制審判は今より少なかったです。それはハイレベルの試合が多く、また主催側組織がしっかりしていたことが理由であったと思います。

 次に自由なサークル的立場でチームが集まり行うリーグ戦、トーナメント戦、練習試合、また早朝野球及びナイターを含め盛況でした。この分野では一人制審判の依頼が圧倒的でありました。

 一人制審判で野球を楽しむチームの皆さんに対する責任の重要性と技術面での対応もますます大切になってきました。

 このように野球審判の需要が高まると共に、依頼を受ける審判グループが時代の要請として立ち上がるのも必然であります。

 それらの審判組織は、それぞれが依頼に応えるために審判技術の向上に努める必要がありました。

 この時期に、野球審判を志す者なら誰に対してもオープンに審判員技術について語り学べることを目的とした「野球審判教室」が開催されました。

 この「教室」の開催について考察すれば、日本にはアメリカの審判学校のように審判技術の習得を望み、更に望めば大リーグまで審判の道が開かれているような審判員の育成システムがありません。

 私共が何を規範として審判技術を確立し、ユーザーに応えていくかを考察したとき、画期的な試みであったと思います。

 私が先に体験して、確信したアメリカの審判学校で教える審判の基本と技術を体得することだとの結論と合致するものでありました。
 そして「野球審判教室」は理想とする審判技術習得の「場」への試みであったと理解しております。

 この「野球審判教室」は年一回開催して10年間続きました。後にアメリカからジムエバンス審判学校の校長である同氏を招聘した講習会も開催されました。

 更にその後に、平林 岳氏が主催するアンパイアリングサポートシステムUDCの活動へと続いて行きます。

 この努力は発展の礎としてこれからも続けられ成功することを心から願っております。 (この項続く)

(2011年2月1日)


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