派遣審判員の歴史と今後の展望と役割 審判用マスク
甲斐 雄之助

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 前回は実施された「野球審判教室」について、そのことが私共のようなベースボールスポーツの基礎的分野で審判を担当する審判グループ等にとって必要な望ましい審判技術研鑽の場であることを述べました。

 「教室」は広く呼びかけがあり、各地から自己の審判技術を確立したい、そんな意欲を持つ人達が多数参加したことには驚きと共に共通の意欲を持つ多くの仲間がいることを実感しました。

 シーズンオフに実施された教室は、土曜・日曜と実質2日間の昼夜フル活動でした。インストラクターとしてプロ現役審判員の方々が指導にあたりました。

 先ずアメリカの審判学校で教える判定の基礎動作を反復訓練した後、判定のために必要な多くのテーマについて実戦を前提とした技術指導に重点が置かれました。

 夜遅くまで座学と称してアメリカ及び日本の審判情報を聞き、さまざまな質疑や議論を尽くしたことは、参加者からユニークで実戦的教室との評価がありました、私共が望む教室であったと思います。

 開催されたこの教室について新聞・テレビの取材や報道で実態が紹介されて話題となりました。現れた反応を次の三点にまとめました。

 1、アマチュア野球の審判を担当する人達の審判に対する活動姿勢の認知と審判グループに対するコンタクトと依頼。

 2、この教室が提供する情報及び演習カリキュラムを目的に参加するリピーターの存在で、彼等は終了後も、何らかのイベント毎に連携して行動をする。

 3、教室参加者の中からアメリカの審判学校への体験入学ツアー参加者、或いはフルコース入学を目指す者が現れたこと。

 1980年代を述べる最後にアメリカの審判学校へ翔たいた人達の中から私の記憶に残る二人について述べます。まず、先に紹介した岡本浪男氏です。

 彼はアメリカで審判をすることを目的として会話能力を高めながら現地に在住し、審判学校で研鑽を重ねている先駆者でありました。

 私共が行った翌年が最後の機会になりました。マイナーリーグへの選考候補に残ったとの話を聞いたのですが、涙を呑んだとの報に愕然としました。

 アメリカで審判員になるにはこの選考と就業ビザの取得が条件だとの話を後に知りました。

 後に彼と社会人の準硬式リーグで審判をする機会に恵まれ、あの見事なステップワーク。そして決して基本を崩さないメリハリの効いた判定動作を忘れることはありません。これも二年程で、彼は病に倒れて帰らぬ人となり、大切な仲間を失いました。

 彼の果たせなかった夢を実現したのが平林 岳氏であります。彼との出会いは彼がまだ学生のときであります。持って生まれた素質と明確な行動意思を持ち、将来が期待される青年でした。

 大学を卒業後、彼がアメリカのマイナーリーグ審判員を経て帰国後、プロ野球パシフィックリーグの審判員として活躍しました。

 そして再度アメリカへ渡りマイナーリーグの審判員となり、昨年は3Aリーグ審判員を勤めたことは、彼についてその都度マスコミの取材や報道でご存知のことであります。彼の活躍と人生目標の達成を心から願っております。

 次に「教室」へ参加した人達の中から、アメリカの審判学校フルコースを経て日本のプロ野球審判員となった人達がおります。今ではベテラン審判員としてそれぞれ活躍していることを述べておきます。

 今、1980年代を顧みれば、恵まれた社会環境のなかでスポーツ振興の気運乗り、野球の楽しみ方も多岐に発展し、その運営及び維持のために私共審判に携わる者の立場を創意確立する時期であったと思います。

 以上でこの項を終わります。書き終えて 目が霞んでしまいました。

(2011年3月1日)


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