スポーツ博覧会
スポーツ・ライター 玉木正之


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 ■72 賭博の根本問題を考えてみる

 神々の素晴らしさを称えて作る歌や音楽、絵画や彫刻などから芸術が生まれ、神々のような強く美しい身体になりたいと、身体を鍛えるところからスポーツが生まれ、そして神々の意思(神託)を予想する行為からギャンブル(賭博)が生まれた。つまり、芸術・スポーツ・ギャンブルは兄弟文化と言えるのだ。
 が、我が国では、ギャンブルは刑法で犯罪として禁止されている。何かの出来事を予測して金品を賭けることは犯罪行為とされ、それを行うと(たとえば甲子園の高校野球の優勝校を予想して金銭を出し合い、当てた人物が外した人物から金銭を受け取るようなゲームを行うと)犯罪として逮捕処罰の対象となる。
 しかしギャンブルは殺人や窃盗と異なり、絶対的な「悪」ではない。国が許可した賭博(競馬・競輪・競艇・オートレース・toto)だけは(なぜか)「悪」でも「犯罪」でもない。
 またイギリスのように、1960年に生まれた「賭博解禁法」(Betting & Gambling Bill)によってあらゆるギャンブルが解禁された(許可さえ受ければ誰もが「賭け屋=ブックメーカー」を開業できるようになった)結果、サッカーの勝敗から王室の赤ん坊の男女まで、米大統領選から日本の大相撲の優勝予想まで、ありとあらゆる出来事が賭けの対象となり、その結果、反社会勢力(ギャング)が賭博を資金源にできなくなった。
 かつて禁酒法が存在したアメリカで、ギャングが酒の密輸・密造酒・秘密バーの経営等で大儲けしたのと同様、現在の日本社会も、賭博が刑法で禁止されている結果、逆に反社会的勢力に利益をもたらしているとの指摘もある。
 プロ球界で野球賭博やチーム内の賭けが問題視されている今、賭博の根本的問題も考え直してみるべきだろう。

(スポーツライター・音楽評論家。国士舘大学体育学部大学院非常勤講師。著書多数)


(「損保のなかま」2016年5月1日付より)


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