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 ■11…イチローがMVPを逃した理由
   イチロー的身体能力論と日本文化


 人はぼくが身体に恵まれていないといいますが、私自身は非常に恵まれた身体だと思っています。恵まれた身体とは大きさやパワーのことではありません。自分の身体能力をどれだけ存分に発揮できるか、ということです。
 
 昨年二六二本の大リーグ安打記録を樹立したイチロー選手のコメント要旨である。彼のいう「身体能力」には攻守を含む野球技術や野球に対するメンタリティにとどまることなく、(本人はそこまで言及しているわけではないけれど)、人間としての一般的な能力まで含めて語られているように思える。それほど、彼の言葉にはいつも濃い内容がぎっしり詰まっている。表現も実に的確で的を射ている。
 小柄だがなんと優秀な日本人であることだろうか。
イチローの身体能力論は、日本人の自尊心を存分にくすぐってくれる。

 大晦日の格闘技プライド。デビュー以来一勝もできずぶざまに六連敗を喫した巨漢・曙(元横綱)を見て快感に浸る日本人。
 弁慶に対する牛若丸。軽量の栃錦や初代若乃花が大男を投げ飛ばしたかつての大相撲。体重無差別級こそ日本柔道の真髄とばかりに、今年一月の嘉納杯無差別級選手権で、自分より大きな外国選手を投げ飛ばして優勝した井上康生選手。
 パワーより俊敏性にこそ美が存在するとするのが日本文化だ。
 「柔よく剛を制す」「大男総身に知恵が回りかね」である。

 イチローがアメリカに渡っていきなり首位打者を獲得してMVPを獲得した二○○一年は、そういった日本文化がパワー信仰のアメリカ野球に一時的にしろ風穴を開けた時代であった。大型のアメ車に比較して小型ながら性能では段違いのトヨタを見るような初々しい眼差しがアメリカにもたしかに存在した。
 そして二○○四年、四年目のイチローは一年目に勝るとも劣らない大活躍をした。八十年ぶりに更新された破天荒な大記録はむろんMVPを受賞してもけっしておかしくなかったが、MVPレースは接戦にすらならなかった。
 なぜだろうか?イチローは飽きられたのか?
 背景には変化したアメリカ社会の価値観がある。イチローのデビュー後、あの9・11があったことを忘れてはいけない。あの日以来、アメリカはパワー信仰に逆戻りした。昨年、ブッシュ大統領を再選させた力は、いまだに「イラクは大量破壊兵器を持ち、アルカイダの基地」だと信じる人々が中心という。事実を見るより、パワーにすがる観念的思想の広がり。それこそイチローのMVPを拒否した社会的背景である。

(「損保のなかま」2005年2月1日付より)


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