小説さ 小説さ
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 「ハイ。分かりました。明日にでも歩いて見ます」

 と、軽く引き受けましたが、いろいろ調べて見ますと下流までは40キロ以上もあることがわかりました。遊歩道も途切れ途切れであります。それも東京湾の河口近くまであるのです。ということは修平の故郷がゴールなのです。

 遊歩道は2時間もあれば歩けると思っていたのですが、あの女性と散歩の途中で会ったらどう弁明したらいいのか、困ったことになってきました。

 今日の散歩は出合わないために時間帯をずらして出かけることにした。汗をかきながら下流の遊歩道を1時間ほど歩いて自宅に戻りました。少しでも下流の遊歩道を知る必要があるのです。

 幸い今日は会わずにホッとしました。と。同時に少し残念にも思いました。もしかしたら亡くなった妻と同い年か、あるいはもう少し若いかも知れない。

 修平が妻を亡くしたのは、定年になった5年前のことである。さぁこれから女房孝行をしようと思った矢先です。病名は乳がんでした。病院で診てもらった時にはすでに手遅れでした。3か月の看病しか出来なかったことは、修平にとっては心身ともにボロボロに打ちのめさせられました。

 幸い自宅には息子夫婦と孫が二人いたので、なんとか持ちこたえることができました。おそらく一人でしたら自己堕落に陥り妻のあとを追ったことでしょう。

 お互いに27歳で一緒になり、子育てのころは楽しい思い出がありました。子どもから手が離れますと修平は仕事の合間に好きな草野球審判を繰り返す日常生活でした。

 なぜ草野球審判が好きになったのか。それは、息子が少年野球に入ったのがきっかけです。妻も息子かわいさに小学校2年から高校まで野球の応援を楽しみました。野球審判の方も初めはお手伝いでしたが、息子の成長とともに本格的に勉強するようになりました。

 夫婦の野球応援は息子の高校3年の夏までつづきました。息子にはとても「いい夢」を夫婦で見させてもらいました。

「いい夢」とは息子は小学生のころから身長が高く、中学3年ですでに180センチに達しました。周りの人たちから「将来この子は甲子園だ。そしてプロ野球選手だ」といわれますと夫婦は悪い気がしません。

 息子がマウンドで投げる姿をハラハラ・ドキドキと見守り、試合に勝っても負けても、応援の父兄の皆さんとホームグランドの物置小屋でビールをとつまみを持ち寄り楽しく過ごしました。

 今でも夏の高校野球大会予選が始まりますと、20年前に神宮球場で勝ち投手になった息子と、息子の母校を想い出して試合結果が気になります。

 修平は土曜・日曜になると今でも草野球審判を続けているのは、亡き妻をなんとなく思う気持ちからです。それに若い人たちに囲まれますと65歳という歳を忘れさせて、一瞬ですが子育てのころを懐かしく想い出してくれるからです。

 朝の散歩で同年齢の方と世間話をする時に決まって出てくる言葉は「いーや、毎日やることがなくて…」そうなのです定年を過ぎた方で、元〇〇会社部長の肩書きが邪魔をして、そう簡単に仕事もつけないし、かといって地域のボランティァもする気になれない方が多いのです。

 修平は草野球の審判があるために仲間もいるし、楽しく・緊張感をもって過ごせる日があるのが生き甲斐です。審判仲間にもチーム・選手にも感謝しております。

 さて、鶴見川遊歩道の探索は一筋縄ではいかないことが分かったので「やることが増えた」これで平日の時間はつぶせるし、あの女性と逢って話も出来る。亡き妻には申し訳ないが、話ぐらいは勘弁してくれるだろう。などと勝手に空想を膨らませるのです。

(つづく)


(2010年8月1日)


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