横丁の思い出 横丁の思い出


(2)横丁の思い出
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 清はその後、納豆売りの子とは顔を合わせることはありませんでした。

 小学校5年生の寒い冬の朝のことです。小便が我慢できなくなり、便所の窓で小便をやりながら納豆売りの子と眼と目が合ってしまいました。

「なんだ洋坊か」「おぅー清坊か」。二人は同級生でした。

 特別に仲の良い友だちではありませんでした。その理由は、洋坊こと下山洋介は、遊びに誘っても中々付き合ってくれませんでした。

 清も学校から帰ると家の手伝いをやらされました。

 すしネタの青柳、通称ばか貝の加工です。貝をむくのには「むき包丁」という刃先が平らな小さな包丁で貝を開き、貝はしら(高級天ぷら)、実(寿司ネタ) 腸(わた・煮て食べる)に分類します。清の作業は貝はしらを「往復はがき」くらいの大きさの箱に箸を使って並べる仕事であります。

 清の貝はしらを並べる手伝いは夕方の遅い時間帯なので、学校から帰っても遊ぶ時間はありました。

 下山洋介は全ての「貝の工程」を手伝わされるので遊ぶ時間がないのです。それで二人は遊ぶ機会が中々ありませんでした。

 洋介は小学生2年の時に漁師のお父さんを亡くしました。船での事故ではなく酔ってトラックにはねられたのです。

 洋介の下には3人の弟がおり、母親は「ばか貝の加工」で働き、一家5人が生活をしていました。洋介は家計を支える貴重な戦力なのです。もちろん納豆売りも朝飯前のひと稼ぎなのです。

 この頃は「新聞配達」「牛乳配達」「鉄骨拾い」とお金になることなら何でも子どもたちやりました。女の子は自営の店番、魚介類の運搬。バカ貝の「貝むき」をする子は手が傷だらけでした。

 清も「鉄骨拾い」をやり、小遣いは親から貰ったことはありません。正確には親が子どもに小遣いを与える余裕のない時代でした。

 そうそう清の弟、武は「牛乳配達」ではなく、牛乳泥棒が得意でした。朝、学校に行く前には必ず2本の牛乳を飲んでいきました。

 牛乳泥棒には捕まらないやり方があるのです。それはけっして同じ家の牛乳を続けて飲まないことです。牛乳が配達される家は山の手の家です。学校まで10分で行けるのに遠回りをして1時間かけていきます。

 スリルとサスペンスではありません。成長期の子どもには牛乳がなによりの栄養満点の飲み物であったからです。

 武も中学生になり牛乳配達をはじめました。販売店主に「割ってしまった」「足りなくなった」とかいろいろ嘘をついて牛乳を飲んだそうです。

 清はなぜか大人になっても牛乳は飲めませでした。なんとなく武のやってきたことを思い浮かべると飲めなくなるのです。いや。おこぼれを貰った罪悪感からも知れません。

 牛乳で学校給食に出た脱脂粉乳を思い出しました。

 ●脱脂粉乳の思い出

 脱脂粉乳は臭かった もう二度と飲みたくない
 鼻をつまんで一気に飲みほした奴 お代わりした奴
 給食代が払えず 脱脂粉乳も飲めなかった奴
 脱脂粉乳の思い出には そんなこともありました
 だからわたしは 今でも牛乳が飲めない

【脱脂粉乳】今から55年ほど前に学校給食では、脱脂粉乳を水でとかし温め、牛乳の代わりに飲んでいました。アメリカからもらったもので、その一口がまずいなんてものではありませんでした。当時、アメリカでは家畜の飼料にも使われていたということを後で聞きました。

(つづく)


(2007年9月15日)


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