思うがまま…

臼井淳一
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(3)祖父・喜八の将棋と羽織絵

 私の祖父は明治生まれです。前回書いた「二等兵・松たんは不名誉の死なのか」でもふれているように横浜・鶴見川河口の網元の次男坊として生まれました。

 子どもの頃から、網元の「待合い部屋」に集まる船頭さん、釣り師、お客さん達の「打つ将棋」を見ながら育ちました。そのうち将棋のルールを覚えて大人と対等に打ち合うようになりました。

 この頃は、娯楽が少なく将棋は多くの庶民に親しまれていました。また「趣味」とは言わず「道楽」と言っていました。祖父の道楽は「将棋と釣り」でした。

 また両腕にビッシリと刺青もしていました。「呑む・買う・打つ」の三拍子揃った人でした。飲むはお酒、買うは芸者遊び、打つは丁半博打です。若い時に遊んだので働き盛りにはピタリと止めたそうです。

 祖父の腕を触ると夏でも冷たく、よくこんなことを言いました。
「こんなバカなことをしちゃいけない。刺青なんてバカがやることだ」

 鮮魚の卸商などを生業として、80歳近くまで栃木県・宇都宮市場まで朝早く起きて寿司ネタの「青柳」を卸していました。

 祖父の時代の将棋は「賭け将棋」が主流でした。わたしの記憶では祖父は70歳を過ぎても自宅で将棋を指している時には、座布団の下からお札が行ったりきたりしていました。

 写真をみてください。これは羽織裏の刺繍絵です。昔の人は眼に見えないところにお金をかけたお洒落をしたのです。


刺繍絵

 この羽織裏の刺繍絵は伯母の家の「お宝の部屋?」にありました。伯母が祖母から祖父の片身分けにもらったものです。それを額にいれて保存しました。

 祖父は若い頃、他県の対局にしばしば招かれるほど強かったそうです。そこで作ったのはこの羽織です。対局者同士が「縁起」を担ぎ羽織裏の刺繍絵を壁に掛け合うのです。もちろん「大金」のかかった勝負です。

 祖父の刺繍絵は「在原業平(ありわらのなりひら)」の絵姿です。
「時しらぬ山は富士のねいつとて かかのこまだらに雪のふるらむ」【季節を弁えない山は富士の嶺だ。今をいつと思ってか、鹿の子斑に雪が降り積もっているのだろう】と詠った絵姿です。

 富士山を背景に供をつれて松並木を悠然と馬にまたがる姿は優美で物語性を想像させます。

 勝負師にはやや軟弱な絵ですが、当時の祖父は「オトコマエ」でとてもお洒落だったと聞きました。この絵は祖父・喜八に似合っていたのではないでしょうか。

 対局から帰りますと相手の刺繍絵「加藤清正の虎に勝ったぞ」と喜んでいたそうです。祖父の将棋の腕前はアマチャー3段でした。

 孫のわたしも一度だけ祖父と将棋を指したことがあります。祖父は金銀4枚と歩だけでした。まったく歯が立ちませんでした。わたしに将棋の才能がないことを見抜かれ、以後将棋を指してくれませんでした。

 祖父は80歳を過ぎてもアマチャー将棋大会の「年齢制・横浜市長杯・県庁杯」で優勝してカップなどをもってきました。

 だがそのうち賞品を持ってこなくなりました。ある日、県庁から電話があり「置きっ放しになっている杯と賞品を取りにくるように」と言われ、あわてて家人が出向いたこともありました。

「重いからめんどうくさかった」と祖父の言い分です。大山名人、中原名人の署名入りの扇子等も欲しがる人に与えていました。

 30数年前「80歳の祝い」に、わたしは渋谷区千駄ヶ谷の将棋会館で扇子(棋士の名前は忘れました)を買いプレゼントしました。とても喜びこんなことをくり返し言っていました。

「ていしたものだ。ジュンありがとうよ。ていしたものだ。ジュンありがとうよ」


傘寿の祝い
祖父母と一緒に傘寿(さんじゅ・80歳)の祝い

「在原業平」の羽織裏は細かく織ってある素晴らしい刺繍です。祖母が丁重に糸をほぐしていましたので額絵に保存ができました。
 
 テレビの「お宝鑑定」で出したら「うん百万円?」になるかも知れません。


(2008年9月1日)



 前回書いた「二等兵・松たんは不名誉の死なのか」でなぜ「松たん」という呼び方なのかという質問がきました。
 本来は「松さん」「まっさん」ですが、このころ「まつ」は女性の名前に多く、船頭さんには「まったん」の方が力強く、皆に親しまれたから「まったん」になりました。(伯母の話)




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