思うがまま…

臼井淳一
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(4)祖母・竜(りょう)の思い出

 祖母・竜(りょう)は、東京・日本橋で職業軍人の長女として1900年に生まれました。父も母も士族(武士)の出身でした。父は1901年の日清戦争で戦死いたしました。

 母親はそのショックからお乳が出なくなり途方にくれてしまいました。運よく甲州(山梨)の薬売りが「知り合いに子どもを亡くして乳が張って困っている人がいる」と紹介してくれました。

 そこから竜の運命が大きく変わってしまいました。知り合いの家というのは神奈川県港北区の渡辺という地主でした。ここで「可愛い、可愛い」と育てられました。

 その後、実母は再婚して2才の竜を引き取りに来ました。だが、渡辺は竜を返さず自分たちの子として戸籍に入れてしまいました。

 地主の子として何の不自由もなくすくすく竜は育ちました。だが4才の時に義母に男の子が生まれ、さらに毎年のように男の子が4人も生まれました。

 このころ義父は借金の保証人となり、田地・田畑を失ってしまいました。竜の運命も大きく変わり、小学校も義弟の子守りをしながら行き、義弟を背負い教室の外で授業を受けたそうです。それでも「成績」は甲(5)ばかりでした。

 テレビ・映画「おしん」のように売られませんでしたが、働き詰めのこども時代から娘時代を過ごしました。それも辛い、辛い農作業でした。

 親が決めた結婚相手の喜八とは、義母が姉妹で戸籍上は従弟同士なのです。血のつながりがないので安易に決められたのでしょう。

 結婚してヨチヨチ歩きのわたしの母を連れて、そっと東京の実の母親に何度か逢いに行った話しを母から聞きました。やはり親子の絆は強いものです。この様子を母と祖母に詳しく聞いておけば良かったと悔やまれます。

 祖母は毎日のように永い時間新聞を読んでいる姿を覚えています。中学生のわたしも分らない漢字をすらすらと読み書いていました。本当はもっともっと学問をしたかったのでではないでしょうか。

 わたしもこどもの頃、祖母の港北区の生家に何度が連れて行かれました。何故かそこでの祖母は威張っているのです。特に義父母と家を継いだ弟には「突剣道」な物の言い方をしていました。

 おそらく心の中で「私を無理矢理に実母から引き離し、学問もさせてくれずに苦労をさせたのだ」という思いが強かったのではないでしょうか。

 祖母は1900年生まれです。よくこんなことを言いました。

「これからの時代は西暦になる。しっかり自分の生まれた歳を西暦で言えるように。明治・大正・昭和などと言っていたのでは世界に通用しないよ」

「これからは世界の出来事をしっかり見ることが大事だよ」

「私は戦争中にきちんと戦争に反対した政党を支持するよ」

 こんなことを50年前に60歳を過ぎたおばあちゃんが堂々と言うのです。

 長い時間新聞を隅から隅まで読んで知識を得たのではないでしょうか。

 この祖母の影響を子どもたちから孫のわたしまで受けています。

 一口に言いますと「物事を現象面だけ見ないで、客観的に見る」という教えです。

 それにいたしましもわたしは祖母に似ず「勉強は嫌いでした」。もっと勉強をしておけば今頃は「総理大臣」になっていたでしょう。

 もちろん、大臣を投げ出す無責任なことはいたしません。

「本当かな?」


(2008年9月15日)



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