思うがまま…

臼井淳一
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(22)映画「沈まぬ太陽」とハンドルの「あそび」

 映画「沈まぬ太陽」を観て来ました。この映画の原作は5巻に渡る山崎豊子著「沈まぬ太陽」です。わたしも10年前に読みました。また映画・小説の主人公の恩地元こと小倉寛太郎氏の講演も聴きました。残念なことに2002年10月に72歳で亡くなっています。

 映画は日本航空の御巣鷹山の大惨事から始まります。
 御巣鷹山の事故のあった日は夜勤を終えて自宅へ帰りますと、テレビで事故があったことを放映していました。一晩中テレビに釘付けになったことを覚えています。

 映画は3時間半に及び、途中10分間の休憩がありましたが、まったく永く感じられませんでした。御巣鷹山の大惨事と主人公・恩地元の海外への不当な左遷を交互におりまぜながらのストーリーです。観る者にとっては息をもつかせない迫力のある映画でした。

 わたしは小説も映画も読み終えたあと、観たあと、数日もいたしますと「感動」や「感激」が薄れてきます。もともとあまり深く考えることが苦手なのかもしれません。

 まぁ、どちらかと申しますと「あそび心」がある小説、映画が好きです。「あそび心」は「遊び」ではありません。例えるならば「車のハンドルのあそび」です。もし車に「ハンドルのあそび」がなければ車を運転することはできません。

 今、この「あそび」について真剣に考える時ではないでしょうか。「あそび」とは潤滑油ではないでしょうか。世の中がギュク・シャクと音を立てていませんか。

 現代の東京は人口の密集地帯です。そのむかし徳川幕府を江戸に開いてから都市として急速に発展いたしました。ギュク・シャクとしていたのでは都市は機能しません。そこで庶民が考えたのは「あそび」です。

「あそび心」「思いやり」「助け合い」この3つが一体となり江戸の文化・経済は発展してきたのではないでしょうか。なにしろ地方から多くの人が江戸へ集まりました。

 長屋の大家さんも住んでいる人も、新住民には出身地は聞かない。年齢も聞かない。家族構成も聞かない。その理由は「そのうち分かるだろう」とのんびりしていたそうです。こどもたちも長屋全体で面倒みたそうです。

 落語に出てきます熊さん、ハチコウ、それに大家さん。毎日の生活が苦しい中にも楽しく生き生きとしていたのではないでしょうか。

 江戸時代の約300年には戦争はありませんでした。また利益をがむしゃらにむさぼる人も少なかったのではないでしょうか。そう考えますと今の時代より暮らしやすく、住みやすかったかも知れません。

「あそび心」が人と人とを結びつけます。それがやがて「物づくり」へと結びつきます。ハンドルの「あそび」は人間が生きていくうえで絶対に必要なものなのです。

 明治〜大正〜昭和と近代化が進む中で「あそび心」「思いやり」「助け合い」がだんだんと失われていきました。もちろん江戸時代の熊さん、ハチコウの生活に戻ることは出来ませんが「人情」「粋・いき」とかを考えてみるのもいかがでしょうか。

 映画「沈まぬ太陽」は人の命より会社の利益を優先し、そのためには現場の意見など無視して、ガタガタということを聞かない人間は「島流し」にしてしまう。そして御巣鷹山の惨劇は起こるべくして起こった人災です。

 人災・凶悪犯罪が横行する原因は何なのでしょうか。それははっきりしています。政(まつりごと)が庶民中心ではないからです。1円がない人と5億円をなんとも思わない感覚の人。この格差にも原因があります。

 いろいろとわけの分からないことを書いていますが、ハンドルの「あそび」を政(まつりごと)に取り入れて、江戸時代の「あそび心」「思いやり」「助け合い」を見直して欲しいです。ついでにたまには「人情味」のある「粋・いき」な政(まつりごと)をやってください。


(2009年12月1日)



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