【3】

家庭訪問・鳩小屋を見てくれる先生

作 臼井 淳一  



 小学校1年生の入学式アルバムの人数を数えたら、なんと63名もいました。このまま5年生にスライドしたとしても60名近い生徒がクラスにいたのではないでしょうか。
 1つの教室を高学年と低学年が午前と午後に分けて使用した記憶があります。全校生徒が2千人以上いたのではないでしょうか。中学生になると1クラス50名以上で10クラスあるのです。1学年500人。全校生徒は1500人近くいました。先生も出欠をとるのが精一杯の状況ではなかったのではないでしょうか。

 小学校1年生から中学3年生の義務教育で、家庭訪問に来られたのは、小沢先生しか記憶にありません。それも1年間に3回も来られました。いま、考えても、1日6名の生徒の家を訪問しても10日間はかかるのです。年3回の家庭訪問だけで1ヶ月はかかるのです。生徒数が多いなかよく訪問ができたと思います。「3年B組・金八先生」みたいな先生でした。いや、もっとすごい先生かも知れませんでした。なにしろ全校生徒2千人が小沢先生の担当になってほしいという熱いまなざしが注がれていました。

 先生の訪問は、なんとなく嬉しく、待ち遠しかったような気がいたします。それは、先生は、私のいいところだけ、母に話すのです。例えば「淳一君はとても素直でいい詩を書く。作文もうまい」。
 実は、私の家の離れに住んでいる、2才年上の赤堀修ちゃんは、小沢先生で教え子で、先生の指導でNHKのラジオ放送で作文が放送されました。

 私の母とは、1時間近くも話していた記憶があります。母は小沢先生のファンになり、「あの先生の教育にかける情熱はすごい、いまどきめずらしい先生だ」と誉めていました。母と先生の会話では、うろ覚えでありますが、「子供は教育を受ける権利があるのだ」とか「悪い子はひとりもいない」と難しい話をしていました。そして、帰りには必ず私の飼っている鳩の鳩小屋も見てくれました。

 そして、次の訪問者の家を私が案内するのです。なにしろ60名近い生徒の家は全部覚えられないみたいでした。また、同姓が多く、先生も名前で生徒を覚えていたようです。

 同姓ではほろにがい思い出があります。私と同じ巴姓で巴欣一という生徒がいました。この巴欣一がいつも学年を代表して表彰されるのです。このたびに「同じ巴でも淳一と欣一とはずいぶんちがうな」と冷かされました。

 夏休みも終わり、新学期が始まったばかりのときに、クラスに大事件がおこりました。足に包帯を巻いて教室に来た工藤君が、翌日、突然に亡くなりました。

(つづく)

[2000年7月]