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第三章 生活綴方に生きて

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●「作文と教育」(日本作文の会編集・百合出版)一九六七年十月号

 ■ 現場からの報告 ■
 なぜ、生活綴方の道を歩きつづけているか

横浜市南区永野小学校  小 沢  勲    


 
       
 
 ぼくが、生活綴方の道にはいりこんだのは、昭和26年の4月です。だから、ことしで17年目となります。16年という年月の間、子ども向けの文集「エントツ」と、おとな向けの「教室通信」を毎年出し続けてきたことになります。
 そこで、その長い生活綴方の道をふり返って話してみろ、と言われることになったのでした。
 夏休みにはいって、すぐ、文集の山を積み重ねてみました。最後の昭和41年度版が、「エントツ」だけで、197ページもあるのですから、全くの「山」です。〈チリも積もれば山となる〉とは、全く昔の人は、うまいことを言ったものだなあ、と、しみじみ思いました。
 よくもまあ、こんなチッポケな手でガリガリやり通したものだなあ、とも、これまたシンミリそう思いました。
 そうして、オレみたいな者が、どうして、この道を、こう歩き続けているのか、不思議な気持ちにおそわれてきました。(これだけあるんだ、何か、大向こうをうならせるようなことがありそうだぞ)という思いで、ていねいにページをめくっていきました。ダメでした。年のたつにつれ、紙の質はよくなってきてはいます。読み易いようにはなってきてはいます。けれど、〈「エントツ」という名の変わらざる如く、中身に何の変わりなし〉でした。
 あきれ果ててしまいました。同時に、我が身がいとおしくなってきました。よくもまあ、セッセセッセと、バカの一つ覚えみたいに、よくもまあ、くり返しくり返し、おんなじ道を行ったり来たりし続けたものだなあ……。
 ホレたんですね。生活綴方精神に。女房とは見合いだったけど、生活綴方とは恋愛です、恋愛もいいとこ、恋心年経るごとにいよいよ熱しというやつです。生活綴方は、博愛精神の権化ですから、こうしたできそこないの先生をこそ、いよいよますます親身になって面倒をみ続けてきています。
 早い話、今、ここにみなさんの前に立って話さなければならないのも、生活綴方精神が、ぼくに課した、やさしくてきびしい一つの試練だと思っています。
 九月の新学期からは、「なんだ、もっと男らしくシャッキリ話せ」「声が小さい」「何日何十日書こうが、ネウチないことをズラズラ書いているのなんか、日記じゃねえんだ。」なんて、残酷極まるコトバを吐き出すようなことは、しなくなるでしょう。
 ボクにとって、「生活綴方精神」が、どのような教育をしてくれているかを、大切だと思う点だけ、すこしお話させていただきます。
 くり返します。「ボクにとって」です。
 
       
 
 子どものからだを、ひどく
 気にかける先生になれた。
 
 それはそうです。生活綴方の先生方は、戦争前から、「教え子を戦場におくらない」ための教育に、からだをはってきた方がたばかりです。
 その方がたの感化を受けたボクは、ボクなりに、一つのことをし続けています。
 それは、「病気見まいをすること」です。休めば、休んだ日に、たいてい顔を見に行くことにしています。出張などの時には、近くの子にハガキを持っていってもらいます。
 先生が、そう動けば、ひとりでに子どもたちもまねをしてくれます。ですから、ちょいとページをめくっただけで、どの年度の「エントツ」にもそれに関係した作品が出ています。

 〈綴方、書き出しの一節〉
 
 先生は心がやさしいです。
 五年生の時のことでした。ぼくは、ちらしを二はいも食べてしまい、学校を休んでしまったことがありました。
 夜の六時ごろでした。急に先生が、
「今晩わあ、ヤスどうしたんですか?」
と、自転車にまたがったまま、頭をげんかんにつっこむようにして、聞いてくれました。茶わんを出していたおかあさんが、
「きのう、ちらしを二はいも食べてね。」
と答えました。すると、先生は、
「あっ、そうですか。ハハア食い過ぎだったのか。しょうがねえガキだなあ。」
と言いながら、スーッと行ってしまいました。ぼくは、(ふつうの先生ならお見まいになんか来てくれないのに、小沢先生は、ガラが悪いけど、心はやさしいのだな)と思いました。おとうさんたちも、そう言っています。

  先生ありがとう      六年

「なんだ、かぜか?」
「歯がいたかったの」
ぼうしをチョンとかぶった小沢先生
カーテン開き
「満行んちは、これで二回目か」
といいながら、はいってきた
「お線香はどこだ?」
キョロキョロさがしている
「あったあった」といいながら
一本スーッとぬいた
ぼうしをわきの下にはさみ
ゆっくり手をあわせ 目をつぶった
それから 先生はおとうさんの写真をみた
「兵たいは、どこへいったんだっけ?」
ポツンといった
ぼくは「満州」といった
「そうだ、おれと同じ所だったな」
 いくつで死んだんだ?
「45で」
「そうだったな……」
先生ぶつぶつ言いながら部屋を出ていった

  おみまい        4年

「おばさん、知子ちゃんどうしたのよ」
「知はね、かぜひいちゃって熱があるの」
おばさん ミカンの山作るのやめて
ニコニコしている
松田が「お大事に」といった
おれたちも「お大事に」といった
おばさん よけいニコニコしていた

 よく、あの「けむりの町」の、あの露地この露地と、自転車を走らせたものです。ボクにはかなりシンドイことだけど、仕方ありませんです。「命あっての物種だ」「価値あることをこそ書く子にしたい」と言い続けている日本作文の会の、栄誉ある会員なのですから。「教え子を再び戦場に送らないこと」を、旗印にしている日本教職員組合の、光栄ある組合員なのですから。
 また、こんなこともしています。
 親に、その子の「生い立ちの記」を書いていただくのです。気骨の折れることですが、すべての親が書いてくれます。それを、「教室新聞」にのせ、お誕生当日、子どもに読み聞かせてやるのです。
「まいごになった」「けがをした」「病気にかかった」などなど、すらすら何の苦もなく成長してきたなんていう子はいません。子どもは、お友だちの、その母親の子育て苦労話しにシンミリ聞き入ります。ぼく自身も、(ああ、こんなヤローでも、親にとってかけがえのない子なのだった。やたらドヤシツケタリはできないなあ)と、あらためて、その子の顔を見つめることになります。
 そうした雰囲気の中から生まれた作品を読んでみます。

  おばさんへ       六年

 おばさん、石毛君のおたん生おめでとう。おばさんの手紙きいたよ。先生が、「教室通信」に書いてくれたんだよ。
 石毛君、九十九里浜で生まれたんだね。景色のいい所だったでしょう。
 石毛君。二か月目に肺炎にかかったんだね。一時、お医者さんに見放されちゃったんだね。おばさん、すごいショックだったんだね。
 どこのおかあさんも、子どものことを自分のことより、心配してくれているのですね。もし、その時死んじゃったら、石毛君が大すきな。おしるこなんか飲めなかったね。
 おばさん、先生と石毛君があく手した時、ぼくたちみんな、大声で、
「おめでとう」
とお祝いしたんだよ。石毛君、顔まっかにして、ニコニコしていたよ。

 もしも、全日本の教室で、こうしたことをやっていたら、「国民のみなさまがそうおっしゃいますので」という、あのキマリ文句で、親孝行オセッカイ道徳教育などおっかぶせてくることは無かったであろう。ボクはそう思ってます。
  
       
 
 それはそうです。九九もできない、ブタ箱みたいな字を書きなぐる。そんな子だったら、一まとまりの文章など書けっこないのですから。生活綴方の先生方が期待するような文章の書き手にまで、子どもを教育するには、まず、文字をていねいに書ける子にしなくてはなりません。算数も読方も体育も、力の限り学んでいく子にしなくてはなりません。「竜の子太郎」をおもしろいという子。「橋のない川」第二部まで、どうやら読みおえたという子。「先生、新聞配達の給料の中から、500円ぐらいの本買いたいんだけど、どんなのがいいですか?」と聞きに来るような子。そうした子で、文化的な雰囲気がムンムンするような教室を作らなければなりません。
「ひとりの書けない子どももいない教室」「ひとりのよろこびはみんなのよろこびであり、ひとりの悲しみはみんなの悲しみである教室」そうして気高いコトバを生み出してきた生活綴方教師です。
 子どもの、今現在持っている力を熟知し、そこの所から、子どもと子どもの心を結びつけながら、基礎となる学力をつけることに、骨身をけずります。(この点からしても、生活綴方は、ワン・センテンスを正確に書くことや、コンポジションなどについて力を入れてはいけない、などという偏見は、全く笑止千万と言わなければなりません。)
 ぼくは、そうした地に足のついた、情けの深い教育の進め方から、多くのことを学びました。
 ぼくは、新しい子どもに接すると、すぐさま、読み・書き・算の現状をつぶさに調べます。
 そして、次のようなハガキを、子どもに向け、ガンガン書きおくります。ていねいな字で、ゆっくりゆっくり書きます。こういう所にマルをつけてくれ、こういう所にカギをするのだよ、こういう時に、段落をかえるのだぞ??といった思いをこめて、書いています。

・森田、えらいぞ。二のだんだけしかできなかったのに、きょうは、五のだんから、三のだんまでできてしまったな。ウサギのピョンスケみたいだ。
 先生は、おどろいておどろいて、もうおどろきっぱなしだ。
・みどりさんは、からだこそスマートだけど、字は、おてんばのふにゃふにゃだったねえ。
 それが変わってきたねえ。日記を見ておどろいたよ。
 先生が言ったとおり、日記帳の表紙うらへ、「わたしは沢崎みどりです」と、紀子さんに書いてもらったのだね。 その字をお手本に、毎日毎日練習しているのだね。
 字を変えてしまうということは、なかなかむずかしいことなのです。それをやろうとしているみどりさんは、偉い!
 この分でいけば、将来、感じの良い字でラブレターを書ける娘になれるでしょう。
・達夫、偉いぞ。宿題など全然出さないのに、自分から進んで勉強していたのは、おまえとあと三人きりだ。めずらしい子だ。「宝物のような子」だ。
 おまけに漢字勉強の仕方が良い。おれが教えてやったことをよく飲みこんで、やっている。
 達夫は、「小さな先生」だ。だれかが、「車田君、ぼくと一しょに勉強。」
って来たら、一しょにやってくれ。
 達夫君のおかあさん。達夫君はカレーライスが大好物のようですね。今夜は一つ、そいつをごち走して上げてください。そして、家中の人みんなで、ほめそやして上げてください。いくらほめても、ほめ過ぎたということにはなりませんから。

 こうしたハガキを、みんなに読んでやったり、「学級新聞」にのせてやったりします。
 ですから、こうした教室の空気のなかから生まれた作品は、「エントツ」のあちこちに見られます。
 
  先生へ          6年

「ガラッ、今晩わっ!」
よっぱらいの声だ
テレビ見てたぼくたち
ぼく(だれかな)と思いながら
しょうじあけた
あ、小沢先生
鳥うちぼうし横っちょにチョコンとなっている
「長信が、きょうの漢字退治で95点とったよ。おじいさん、『やればできるって、おれが言ったとおりだろ』」
ワッハッハッと大笑いしながらいった
「そうですか……長信95点か」
まじめな顔で聞いた。
「そう、95」
ぼくキッパリいった
先生 また
「おめでとうございます!」って
頭をていねいに下げた
「よっぱらって来ました」っていったら
ガラッとしめて出て行っちゃった
夜の旧道へ出て行っちゃった

先生
二学期さぼり続けたぼく
冬休みのがんばり よっぽどうれしかったんだ

先生
「上がって一ぱい飲んでもらおうと思っていたのに」
って
おじいちゃんも おばあちゃんも
みんないっていたのに
先生
ぼく みんなから
「よくガンバッタ」って ほめられたよ

  石田君へ         6年

石田君きょう来なかったわね
かぜひいてねてるんですってね
私きょうの助け合い勉強
山崎さんとやりながら心配していたのよ

石田君、私たちができると
チック・タックのタックみたいに
はなをひろげ よろこんでくれるわね
できないと
わかるまで教えてくれるわね

冬休みなのに
手をこすりこすり教えにきてくれる石田君
きょうの私 さびしいわ ものたりないわ お大事にね

  ぼくが60点とったこと       3年

かん字のテストで
60点とりました
「大ニュース」と家にとびはいりました。
おとうさんは、
「なにが大ニュースなの」とききました
ぼくが
「60点とった」といいました
「ほんと」とききました
「ほんとだよ」といいました
「うそだと思ったら、先生にきいてみな」
といいました
「じゃほんとらしいな」と
おとうさんがいいました
「べんきょうすればできるじゃん」と
おとうさんがいいました
あとから先生がきました
テストの紙をもってきてくれました
おざわ先生にほめられて
うれしいと思いました
 
      
 
 ぼくが、生活綴方精神から学んだ、大切な二つだけのことについて述べて参りました。この「二つ」は、〈親の願い〉にピタリと合致するものでもあります。
 親が子どもに対するギリギリの願い、それは、
・わが子よすこやかに育ってくれ
・進んで勉強する子になってくれ
です。貴賎貧富、思想信条の如何を問わず、人の子の親である以上、だれもがいだく願いです。
 ぼくたちのような、生活綴方の伝統を受け継ぐ教師、理想に燃える教師、佐藤栄作氏などからは期待されない教師にしてもそうです。
 もしも、ぼくが、ぼくの息子の受け持ちの先生にお願いしたいことを、二つだけあげてみろ、と言われたら、
 一つは、からだのことを気づかってくれる。心のやさしい先生であってもらいたい。
 二つは、えこひいきすることなく、賢い子どもにしてもらいたい。
であります。
 生活綴方の道にはいってもう17年。ボクは、親の二大教育要求に対し、おさなくはあるものの、全力を傾け続けています。
 そのことは、「エントツ」、「教室通信」に文字として固着し、子どもと親、そして、その近隣所へと伝わっていきました。
 親が喜ばぬはずがありません。
 特に、病弱な子を持った親、無学な親ほど、深い信頼を寄せてくれます。
 卒業まぢか、子どもの日記帳に書きつけてくださった、とうちゃんのお手紙、転任後いただいたおかあさんからのお便りを読ませていただきます。

・六年という長い年月も、あっとすぎてしまいました。先生、五年六年とできのわるい子のめんどうを、よくみてくれました。おかげさまで中学ですが、やれカバンだふくだ本だと、また一くろうもふたくろうもしなければなりません。先生、まだこの学校におりますならば、どうか、今までのようにお立ちよりください。
・先生、よく体の弱い尚紀の面倒をみて下さいました。ありがとうございました。尚紀も、どうやら中学へ行って体育の時間に出れるような体になりました。
 小沢先生の、あのせ中丸めて、ねずみ色のぼうしをかぶり、「どうですか?」と自転車を走らせる姿が、生麦から消えてしまったことが、月日がたつにつれ、なんとも胸にこたえて、一度に大声を張り上げて「小沢先生。」と叫びたい思いでいる私たちです。
 そっ直な先生が、あのめがねの中の目から、力いっぱい愛情をこめて作って下さった教科書である「エントツ」と「通信」は、宝物です。いつまでも大切にとっておきます。そちらの学校でも、生麦のど根性で、かざり気のない教えを続けていって下さい。

 こうした親の信頼が、「エントツ」を支持してきてくれたのだと思います。
 お役所の方からは、キケンだ、好ましくないとにらまれる作品をも(しかし、それは、憲法と教育基本法に書かれている、至極当たり前なものですが)、共感共鳴してくださり、愛読してくださったのだと思います。
 ぼくは、この四月「けむりの町」から「住宅の町」へと勤めが変わりました。
 しかし、生活綴方から学びながら、生き続けていきます。生活綴方こそ、日本のどの親、どの子にも奉仕できる、男子一生、女子一生をかけるに足る、日本民族の誇り高い教育実践だからであります。





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